詳細解説
この法句において、仏陀は仏教の教えの核心を、カーディヤプッタの四句の偈で要約して示されている。「すべての悪を行うな、善を行え、心を清浄に保て、これが諸仏の教えである」と。この教えは、知恵ある者が日々の生活で自己を高めるための指針である。高尚な生活を望むなら、当然ながら悪行を避けなければならない。なぜなら悪行は堕落の原因だからである。
人々が悪を行うのは、自らの心身が実体であると錯覚するからであり、そこから無数の罪が生じる。『八大人覚経』には「心は悪の源、身体は罪の森」と説かれている。世間で争い、殺し合いが起こるのも、すべて心の迷妄から生じるものである。物質的欲求のために、身体を守り快適にしようとするあまり、殺生や害を生じることもある。つまり、快適な生活を求めるあまり、多くの罪が生じるのである。
知恵ある者は、苦の原因と楽の原因を明確に理解している。苦の原因を避ければ、苦の結果は生じない。そして彼らは常に他の衆生をも思いやり、自らの苦がなくなると、他者の苦も除かれるよう努める。そのため、小さな善行であっても疎かにせず、全て実行する。これは「真実の地において微塵も受け取らず、万事において一法も漏らさず行う」と言われる通りである。ルーツォーの「本来一物なし」の言葉とも通じる。すべては仮相でありながら、衆生を利益するために行動するのである。
善行を行う際、知者は執着心を持たず、すべてが虚幻であることを理解している。「仮をもって仮を度す」というのは『円覚経』に説かれている。すべては仮相であっても、衆生の利益のために疲れを知らずに行動する。仏や祖師、そして我々の師匠たちもその典型である。師匠たちは仏法のため、衆生のために生涯を捧げ、心の清浄さにより執着や偏見なく仏事を行った。四句の第三にある「心を清浄に保て」とは、心を清浄に保つことであり、それにより解脱が得られる。
凡夫は無明と錯覚の中に生きるため、善を行わず、数多くの罪を生む。心は常に暗黒であり、苦しみの輪廻から抜けられない。仏陀はまた、出家者の自由な生き方を示す。出家者の家は広大な世界であり、狭い物理的な家ではなく、すべては仮相にすぎない。身体の仮相を仮の庇護として使うだけであり、いずれも無常に従い朽ちるものである。出家者は執着を避け、独身で生きることにより、心身への愛着も捨てる。出家者の生き方は高貴であり、世間の人間には到達不可能なものである。
今日の出家者は、仏時代の特性を失い、物質的快楽に溺れることがある。自己の過ちを認めることなく、時代の理由を理由にして出家の美徳を軽視することもある。私たちはまず自らを省みて、現代の出家者と古の出家者の生活を正しく比較することが求められる。現代の物質的生活や欲望を見れば、私たちは過剰に享受していることが明らかである。「三常」が不足することは難しい。私たちは言い訳を重ね、自分の欠点を直視できない。その結果、外見だけが丸く整い、内面は歪み、師匠たちに遠く及ばない。これは悲しむべき現実である。
結局、私たちは自らの業障が深いことを認めるしかない。忠告を受けても、感謝せず、批判することさえある。時には忠告者が心を痛めることもある。それもまた彼らの勲章である。仏祖の教えと比較すると、現代の私たちの生活は非常にかけ離れている。このことを思い出し、各自が自覚することが重要である。自分を最も愛せるのは自分自身である。物質的な支援は他人からも得られるが、真の成長は自らの努力によるものである。私たちは今日、師匠の導きの下、安らかな寺院で集い、修行と学びを共にし、互いに励まし合うことができる。高尚な望みを持つのではなく、互いに目覚めの鐘を鳴らし合い、学びを深める。それこそが、仏や師匠、施主への恩に報いる方法である。出家者として、この恩を忘れてはならない。希望を持ち、互いに覚醒を促す限り、底なしの苦悩に沈むことはない。
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