詳細解説
この法句で、仏陀がお説きになっている意味は、前の法句と同じである。ただし、ここで私たちが注意すべき点がある。それは、仏陀が「よく法を説き、正法に従って修行する人々」と言われていることである。この一句には、法をよく説く者は、またよく実践しなければならない、という仏陀の戒めが含まれている。
ここで仏陀が言われる「説法」とは、法座に上って教えを説く時だけを指すのではない。それは一般に人々が理解している普通の意味である。しかし仏教では、説法には多くの形がある。言葉による説法もあれば、言葉を用いない説法もある。また、身ぶりや行動による説法もある。禅の書を読むと、禅師たちはしばしば、木、杖、払子などの無情のものを用いて説法していることがわかる。こうした説法の目的は、禅師たちがその時その場の相手にまっすぐ向き合い、その人を目覚めさせ、悟りへ導くことにある。
そのことを示すために、ここでいくつかの短い逸話を挙げてみよう。禅師・良价、すなわち洞山は、曹洞宗を開いた祖師である。ある日、彼は潙山霊祐を訪ねて教えを請うた。師は言った。
「慧忠国師が『無情も法を説く』と言われたと聞きましたが、その奥深い意味がまだよくわかりません。」
潙山は言った。
「私にもその境地はある。ただ、それを受け取れる人に出会うことが少ないだけだ。」
師は言った。
「私はまだ理解できません。どうかお示しください。」
潙山は払子をまっすぐ立てて尋ねた。
「わかったか。」
師は答えた。
「わかりません。どうか和尚さま、お説きください。」
潙山は言った。
「口は父母から生まれたものだ。結局、それでお前のために説くことはできない。」
また別の日、洞山は雲巌を訪ねた。師は尋ねた。
「無情の説法は、誰が聞くことができるのでしょうか。」
雲巌は答えた。
「無情の説法は、無情が聞く。」
師は尋ねた。
「和尚さまはお聞きになりますか。」
雲巌は答えた。
「もし私が聞くならば、お前は私が説く法を聞くことができないだろう。」
師は言った。
「では、なぜ私は聞くことができないのでしょうか。」
雲巌は払子を立てて尋ねた。
「いま、聞こえるか。」
師は答えた。
「聞こえません。」
雲巌は言った。
「私が法を説いているのに、お前はなお聞くことができない。まして無情の説法を、どうして聞くことができようか。」
師は尋ねた。
「無情の説法は、どの経典に説かれているのでしょうか。」
雲巌は答えた。
「『阿弥陀経』に、水、鳥、木々、林がみな仏を念じ、法を念じると説かれているのを見たことがないのか。」
この一句を聞いた瞬間、師はたちまち悟った。そして次の偈を詠んだ。
「まことに不思議、まことに不思議。
無情の説法は思議を超えている。
もし耳で聞こうとするなら、ついに会得することは難しい。
眼のところで声を聞いてこそ、はじめて明らかに知ることができる。」
もう一つの例として、韓文公が禅師・宝通を訪ねた話がある。韓文公は師に尋ねた。
「和尚さまはおいくつになられましたか。」
師は数珠を手に取り、高く掲げて言った。
「わかるか。」
文公は答えた。
「わかりません。」
師は言った。
「昼夜に百八つである。」
文公は理解できず、そのまま帰って行った。
このような逸話は、まだまだ数多くあり、すべてをここに挙げることはできない。私たちが経典を読誦することも、説法と呼ぶことができる。要するに、「説法」という言葉の意味は非常に広いのである。したがって、どのような形であれ、説法の目的は、仏祖の教えを改めて思い起こすことであり、同時に自分自身と目の前の相手とを目覚めさせることでもある。
もし説法がただ相手を目覚めさせることだけを目的とし、自分自身を省みることがないなら、その説法は人の声を出す機械と変わらない。機械である以上、それ自体は何も知らない。ただ部品がそろっていて、人に使われるだけである。それだけのことにすぎない。そうであるなら、機械そのものにどんな利益があるだろうか。また、どんな経験を人に伝えることができるだろうか。
同じように、説法する人が自らの実践経験を欠いたまま、他人に教えを語るなら、それは音声を流す機械と少しも変わらない。人が機械より優れているのは、理解があり、経験があり、実践があるからである。世間でも、教育者はある科目を教える前に、少なくとも多少はその内容を実際に学び、試み、経験している。たとえそれが世間の学問であってもそうである。とりわけ科学や実験を重んじる学問では、人々は教える前に、必ず実験方法を経て、実践を行う。
世間の法でさえそうであるなら、まして仏法においてはなおさらである。仏教は、生きた実践の道である。仏教は、空疎な理論を重んじたり、それに偏ったりしない。仏教は、言葉と行いがともに進むことを説く。したがって、広い意味での説法者とは、修行において多少なりとも経験を持つ人でなければならない。そのうえで、初めて他者に教えを伝えるのである。
文字や言語は、それだけでは死んだ殻のようなものである。私たちは、その死んだ殻を、生き生きとした教えへと変え、人々に利益をもたらすことができる。そうでなければ、仏教の教えは、博物館に展示された骨董品のようなものになってしまう。だからこそ仏陀は、「よく法を説き、正法に従って修行する人々」と教えられたのである。
「正法に従って修行する」ということには、浅い意味と深い意味の二つがあると理解できる。浅い意味では、経典に説かれている仏陀の教えに従い、善を行い、悪を避けるよう努力して実践することである。深い意味では、自らの本心へと立ち返り、無明を照らし破り、煩悩を断ち、安らかな涅槃に至ることである。これこそが、この法句において仏陀が示された本来の趣旨である。
正法に従って修行するからこそ、人は彼岸に到達し、脱しがたい魔の境界から離れることができる。逆に言えば、もし仏陀の正法に従って修行しなければ、私たちは魔の境界から抜け出すことは難しいのである。
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