詳細解説
心の中の汚れを洗い清めたいなら、知恵ある人は何をなすべきであろうか。知恵ある人とは目覚めた人であり、迷える者とは異なる。目覚めた人とは、内側が常に明るい人である。内側を明るくしたいなら、知恵ある人は絶えず自分自身を振り返らなければならない。
私たちは心を静めて、よくよく見つめてみるべきである。昔から今に至るまで、仏陀や祖師、また道を成就した修行者たちの中に、心を外へ走らせ、塵境を追い求めながら悟りを得た人がいただろうか。あるいは、すべての人が自分自身を照らし返し、内観し、禅観によって煩悩をふるい落とし、道を成就したのではないだろうか。
仏陀は菩提樹の下に座り、四十九日間、内心を深く観察された。そのことによって無明と煩悩の汚れをすべて洗い清め、ついに悟りの果を成就された。祖師たちもまた同じである。外に向かって求めて悟りを得た者は一人もいない。仏祖はしばしば、「心の外に道を求めるのは外道である」と説かれた。なぜなら、仏になる、あるいは道を成就するということは、人間自身を離れた遠いところにあるものではないからである。
仏教は人間を根本とする。人間が自らに立ち返り、自分自身の真実の本体と完全にともに生きることができるなら、その人を悟った人と呼ぶのである。このように、仏教は人間そのものにまっすぐ向かい、人間の内にある新しく深い真理を発見し、明らかにする。仏教が科学と異なる点は、一方は内なる世界を征服し、もう一方は外なる世界を征服するところにある。
科学がどれほど発明を重ね、進歩したとしても、それは自然界を征服するにすぎない。科学者たちは、まだ完全には自分自身を支配できていない。彼ら自身の中にも、なお無明、煩悩、貪り、怒り、愚かさが満ちている。彼らにはまだ不安があり、内面の葛藤がある。彼らの人生には、なお長く続く苦しみがある。彼らはまだ真の幸福を得たことがない。心は混乱している。知性は確かに明るい。しかし、その明るさは外界を照らし、研究し、探究するためのものである。そのため、彼らは多くの先端的な機械や技術を発明した。現代の人類は皆、彼らに恩恵を受け、その才能に感服している。
しかし、彼らがどれほど才能にすぐれ、どれほど発明に秀でていても、彼らはなお、他の多くの普通の人々と同じように苦しむ一人の人間である。その理由は、彼らがまだ自分自身を深く見つめていないからである。彼らはまだ自分自身を克服し、支配することができていない。彼らはなお外界に引きずられている。内側には、彼らを不安にさせる混乱がなお残っている。仏教の修行者たちに彼らが及ばない点は、まさにそこにある。
今日、彼らが仏教に目を向けるのも、この卓越した点があるからである。彼らが仏陀を尊敬するのは、仏陀があまりにも偉大な一人の人間であったからである。その偉大さは、仏陀が完全に覚られたことにある。無明をすべて洗い清められたなら、仏陀に知らないものは何もない。だから仏陀には「正遍知」という称号もある。すなわち、すべてをあまねく正しく知る方という意味である。仏陀は諸法をあるがままに知り、推論によってではなく、自らの実証によって明らかに知られたのである。
『阿含経』には、四十九日目の夜、仏陀が三明を証得されたと説かれている。すなわち、天眼明、宿命明、漏尽明である。この三明を証得されたことにより、仏陀は時間と空間を超えて、すべての存在を透徹して見通された。経典では、それを、高い楼閣の上に立つ人が下の三叉路を眺め、行き交う人々をはっきり見るようなものだと描いている。
これに対し、科学は、仏陀のように内面を発見し、実証していないため、ただ頭脳による推論と模索によって、自然界に属するものを発明するだけである。今日、人類全体が仏教を称賛し、仏教へ向かうのは、まさにこの点にある。仏陀が語られたことは、すべて仏陀自身の証悟から出ている。その証悟とは、真理における完全で徹底した証悟である。だから人々は、仏教を「内観の道」、あるいは完全に「人間を根本とする道」と呼ぶのである。
真理にかなった宗教に従うことができるのは、私たちにとって誇るべきことである。仏教においては、すべてが真実を尊重する。では、それは何によって得られたのか。仏陀が自らの内に深く観照し、あらゆる煩悩と汚れを洗い清められたからではないだろうか。しかし、そのようになるためには、当然、方法が必要である。念仏、真言、禅定など、どの方法であっても、自分の根機や性質、好みに合うものを選べばよい。ただし、すべては煩悩を滅するという中心目的にまっすぐ向かわなければならない。
上根の者であれ下根の者であれ、この点は同じである。違いは、修行の方法に頓と漸があるという点だけである。頓の例としては慧能祖師があり、漸の例としては神秀禅師がある。私たちのように根機の浅い者は、六祖慧能のように頓悟頓修することはできない。ならば、なぜ神秀禅師の漸修の方法を用いないのだろうか。
神秀禅師はこう詠まれた。
「身は菩提樹のようであり、
心は明るい鏡の台のようである。
時々に常にこれを拭い、
塵や埃をつかせてはならない。」
現在、私たちは浄土の法門を選んで修行し、名号を称えて念仏することを中心としている。その目的もまた、煩悩を消し去ることにある。煩悩が尽きてこそ、往生の道は確かなものとなる。もし私たちが努力し、精進を重ね、常に心を拭い清めるなら、いつの日か煩悩の塵や埃がなくなることは当然である。これは確かなことであり、ほかに道はない。
今日、仏教に従って修行する私たちは、仏陀が歩まれた道から外れることはできない。道を外れれば、邪見に落ちる。そうなれば、どうして真実を見極めることができようか。
見よ、澄みきった湖がある。万物がその水面に映り、影も形もはっきり現れている。水面は平らで、一つの波紋もない。空の鳥の群れが飛び過ぎても、跡を残さない。万物がそこに姿を映しても、湖は静かにとどまっている。人々の心の湖もまた同じである。いったん汚れが洗い清められるなら、その心は澄みわたり、あらゆる姿と世界を映し出す。私たちは、自分自身の中に、このような清らかで涼やかな湖をつくるよう努めなければならない。
そうしてこそ、仏陀の教え、すなわち「知恵ある者は心の汚れを洗い清めなければならない」という言葉にふさわしくなる。汚れが清められれば、私たちが安楽を望まなくても、安楽は自然に現れる。世の中に、正法の喜びほど高くすぐれた喜びはない。
そう言うと、私たちは主観的すぎるだろうか。そうではない。なぜ、そう断言できるのか。なぜなら、この世を通り過ぎていった多くの人々の中で、心の深い傷跡を残さなかった人はいないからである。その傷は、彼らの心の奥深くに刻み込まれている。彼らは生涯において、たとえ一瞬であっても、真実の幸福と喜びを得たことがない。世間の喜びは、外側を華やかな塗装で覆っただけの、偽りで一時的な喜びにすぎない。喜びがあったかと思えば、すぐに苦しみが現れる。人々が「快楽は苦しみへの道を開く」と言うのは、そのためである。
これに対して、正法の喜びの味を一度でも味わった人は、初めて真実の幸福と喜びを感じることができる。その喜びは、世間の楽しみのようににぎやかで刺激的なものではない。しかし、それは春の風のように軽やかで涼しく、悲しみや憂いを和らげてくれる。仏教では、このような喜びについて多く説かれている。喜楽、法楽、さらに高いものとして禅悦がある。
仏教には、凡夫の禅定の一種として四禅と呼ばれるものがある。四禅とは、初禅の離生喜楽、第二禅の定生喜楽、第三禅の離喜妙楽、第四禅の捨念清浄である。そこにあるのは、ただ一つの喜びである。とても軽やかで、清らかで、自由な喜びである。これこそが、真実の幸福の喜びである。
正法の喜びを安らかに味わいたいなら、修行者は当然、五欲を遠ざけなければならない。五欲に貪り執着しているかぎり、どうしてその喜びを得ることができようか。私たちは二つのものを同時につかむことはできない。すべてを手放し、何ものにもとらわれなくなってこそ、完全な喜びを得ることができる。これは永遠に変わらぬ真理である。
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