詳細解説
通常、人は自分のために悪を行うことは多いが、他人のために悪を行うことは少ない。ここで仏陀は、自分のためにも他人のためにも悪を行ってはならない、と教えておられる。では、自分のために悪を行うとはどういうことか。この問題については、各人が自分自身に問う以外に、より確かな答えはない。なぜなら、悪い行いをしたとき、それを誰よりもよく知っているのは自分自身だからである。
この世では、はるか昔から今日に至るまで、ただ自分ひとりの生活を守り、豊かにするために、数えきれないほどの罪悪が作り出され、どれほど多くの人々や他の生命に苦しみを与えてきたか分からない。自分の生活を豊かで満ち足りたものにしたいと思えば、自分より優れた暮らしをしている者を打ち倒そうとする。目的は、すべての利益を自分のもとに集めることである。人間の貪欲と利己心とは、そのようなものである。これが、自分のために罪悪を造るということである。
では、他人のために悪を行うとはどういうことか。ここでいう「他人」は、狭い意味にも広い意味にも理解できる。狭い意味では、自分と血縁や深い関係のある人々を指す。たとえば父母、配偶者、子どもなどである。中には、身内のためなら罪を恐れず、どんなことでもする人がいる。身内が楽に暮らせれば、それでよいとして、あらゆる手段を選ばず悪を造るのである。人のためと言いながら、実のところ、それもまた自分のためにすぎない。なぜなら、その人は他人から敬われ、重んじられたいからである。自分に仕え、心を配ってもらいたいからである。自分が手を貸したことに対して、相応の返礼を受けたいからである。わずかな虚名を得るために、どんなことでもする。場合によっては人を殺すことさえある。法律も顧みない。そのような人は高慢であり、自分の自我を高く掲げようとしているのである。
総じて言えば、利己的な人は、いつでも自分の命、自分の利益、自分の生活を最優先に置く。他人が死のうがどうなろうが構わない。ここで仏陀は、自分のためにも、他人のためにも、悪を行ってはならないと教えられる。この教えによって、仏陀は一人ひとりの現在と未来の利益を考えておられるだけではない。さらに、社会全体に利益をもたらそうとしておられるのである。もし各人が、自分のためにも他人のためにも悪を行わないなら、社会は平和で安らかになるからである。
続いて仏陀は、子を求めるため、富を求めるため、また世を支配しようとするために悪を行ってはならず、不正な手段によって自分の繁栄を求めてはならない、と教えられる。この教えをより明確に理解するために、一つずつ順に見ていく必要がある。
まず、「子を求めるため、富を求めるため、また世を治めようとするために悪を行ってはならない」という句を詳しく分析すると、仏陀はここで三つの悪を戒めておられることが分かる。
第一に、子を求めるために悪を行ってはならない。なぜそうなのか。おそらく仏陀の時代には、男児を重んじ、女児を軽んじる風潮があったのであろう。昔の東アジアの儒教的な社会にも、男子を重んじ女子を軽んじる習慣があった。そのため、「一人の男児がいれば家は続くが、十人の女児がいても続かない」という趣旨の言葉さえあった。つまり、家に一人の男の子が生まれることは、十人の女の子が生まれることよりも尊いと考えられていたのである。別の言い方をすれば、十人の娘と一人の息子を取り替えるような話であっても、昔の人々は息子を重んじた。古い考えでは、男の子は家を継ぎ、祖先の祭祀を守る者とされた。一方、女の子は成長すれば他家に嫁ぐ者と見なされた。そのため、昔の人々は娘よりも息子を大切にしたのである。
だから、古い書物には、子がいない人、子が少ない人、あるいは娘は多いが息子がいない人が、男児を授かるよう祈願に出かけたという話がよく記されている。これを子授けの祈願と呼んだ。女児を授かるために祈願したという話は、ほとんど聞かない。これは昔のアジア諸国に見られた、男子を重んじ女子を軽んじる習俗によるものである。仏陀の時代のインドにも、そのような風習があった。したがって、裕福な家では、男児を求めるために他の生き物を殺して神々に供え、祭祀を行うことがあった。彼らは神々に祈り、男児を授けてくれるよう願った。迷信によって悪業を造っていたのである。そのため、仏陀は、子を求めるために悪を行ってはならない、と教えられたのである。
第二に、富を求めるために悪を行ってはならない。自分が富裕になりたいがために不正なことをする人は、どの時代にも存在する。どの社会にも、そうしたことは数えきれないほど起こる。他人よりも富み栄えたいという望みのために、彼らは悪を顧みない。自分に多くの利益が入れば、それでよいのである。昔の封建社会においても、貧しく飢えに苦しむ多くの人々が、地主や権力者に抑圧され、搾取され、踏みにじられ、天に訴えても届かないような苦しみを味わった。彼らは富を築くために、あらゆる手段で他人を陥れた。このようなことは、現実にも歴史にも非常に多く記されており、語り尽くすことはできない。
第三に、世を治める、あるいは大きな権力を得ようとするために悪を行ってはならない。この問題について、仏陀は当時の政治を司る人々に向けて教えられたのである。仏陀の時代の歴史を読むと、多くの王たちが、自分の民族や国家のためだと言って軍を起こし、他国を攻め取ったことが分かる。その結果、数えきれないほどの悲惨な死が生じた。戦いに参加した者が死ぬだけでなく、罪のない民衆までも巻き添えになって死んでいく。戦争とは、いつの時代もそのようなものである。昔も今も変わらない。わずかな人々の野心のために、大軍が動員され、他国を滅ぼそうとする。ああ、血が流れ、首が落ち、肉が裂かれ、骨が砕かれるこの光景は、人類がいつになれば互いに殺し合うことをやめるのだろうか。仏陀の時代にも、争奪と殺戮は恐ろしいほど起こっていた。だからこそ、仏陀はこの教えを説かれたのである。その主な目的は、支配権を持つ王たちに向けられていた。彼らが目覚め、互いに殺し合う勢いを抑え、人々が安穏で平和に暮らせるようにするためであった。
次に、仏陀は、不正な手段によって自分の繁栄を求めてはならない、と教えられる。この教えは、主に商売や経済活動によって生きる人々に向けられている。商業において、自分が繁栄したいと望めば、競争が起こる。競争があれば、当然、手段を用いようとする。生計を立て、富を築くために、どれほど多くの人々の苦しみの上に立って生きていることか。商業の世界では、どの時代も同じである。人々は互いに容赦なく攻め合う。経済によって人を殺すのである。互いに奪い合い、占有し合う。強い者が勝ち、弱い者が負ける。利口な者が生き残り、愚かな者が滅びる。資本を多く持つ者は、資本の少ない者を押しつぶす。他者を押し下げることで、自分が高く上がろうとする。そこから、互いを害し合う清算が起こる。すべては、他人よりも富みたいという目的のために、多くの不正な手段を用いるからである。
時には、人々は有害な食品によって他人を毒し、殺すようなことさえする。他人が死のうが構わない。ただ自分が大金を得られればよいのである。食中毒や有害食品の問題については、私たちも時折耳にする。商業競争とは、このようなものになりうる。だからこそ、仏陀はこの教えを説かれたのである。
そう言ったからといって、仏陀が仏弟子に商売や経済活動を禁じたという意味ではない。商業や事業は、国家や社会の面から見れば、自分にも他人にも利益をもたらす働きである。仏陀はそれを禁じられなかっただけでなく、正しく行われるならば奨励されたと見るべきである。経済は国家の血脈であり、流通である。経済に頼らずに生きることはできない。しかし、ここで仏陀が禁じられたのは、邪悪な心である。自分の利益のために不正で不誠実な行いをなし、他人を害する心である。仏陀が禁じられたのは、まさにそのようなことである。
最後に、この法句の結論として、仏陀は、このような人こそ真に戒を持ち、智慧があり、正法にかなった人である、と教えられる。これは仏陀の称賛の言葉である。なぜ仏陀はこの人を称賛されたのか。法句全体を読み返せば、仏陀が四つの「しないこと」を示しておられることが分かる。
第一に、自分のためにも他人のためにも悪を行わない。
第二に、子を求めるため、富を求めるため、また世を治めようとするために悪を行わない。
第三に、不正な手段によって自分の繁栄を求めない。
このような「しない」という戒めを守ることができる人であるからこそ、仏陀はその人を、戒行があり、智慧があり、正法にかなった人であると称賛されたのである。
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