愚かな者は生涯賢者につかえても、真理を知ることが無い。匙(サジ)が汁の味を知ることができないように。
愚者が生涯賢者に仕えたとしても、スプーンがスープの味を知らないように、かれは真理(法)を悟ることはない。

詳細解説

この法句において、仏陀は私たちに、まことに愚鈍な人間の姿を示しておられます。その愚かさは、たとえ幸運にも常に智慧ある人のそばで暮らしていても、正法について何一つ理解しないほどです。それは、朝から晩までただ酒に酔いしれている人が、目覚めた人のそばで暮らしていても、酔いはやはり酔いのままであるのと変わりません。そのような人は、少しの自尊心も向上心も持たない者です。このような人を、仏陀はたとえて言われます。「薬湯をすくい続ける匙のようなものだ。その匙は、いつまでたっても薬の味を知ることがない。」

もし私たちが智慧ある者であるなら、その匙をどれほど哀れに思うでしょうか。それとも、その匙を見て笑ってしまうでしょうか。おそらく、誰もが哀れにも思い、また滑稽にも感じるでしょう。一日中、薬をすくっているのに、その薬の味を少しも知らないのです。気をつけなければ、私たち自身もその薬をすくう匙のようになってしまうかもしれません。中には、その匙よりもさらに劣る人もいます。なぜなら、薬をすくう機会さえ一度も得たことがないからです。

振り返ってみると、今の私たちの身の上は、その薬をすくう匙と何が違うでしょうか。私たちは正法の中に生き、出家者となるという非常に勝れた縁と福を得ています。それなのに、実際のところ、仏法についてどれほど理解しているでしょうか。私たちはいまだ無明の深い闇の中を歩んでいる者です。朝から晩まで正法の清らかな空気を吸っていながら、その清らかな空気の価値をまったく知らないのです。まことに自分自身が哀れでなりません。このような私たちは、愚者でしょうか、それとも智慧ある人でしょうか。

実に、私たちは黄金の山の上に住んでいながら、貧しいと嘆いているようなものです。私たちは、まるでさまよう貧しい旅人のような生活を望み続けています。その過ちは誰にあるのでしょうか。私たちが愚かで迷っているからでしょうか。それとも師や祖師が教えてくださらなかったからでしょうか。私たちは自分を黄金を探し求める者だと言いますが、実のところ、今まさに黄金の鉱山の中で暮らしているのです。なぜ私たちは、その鉱山を掘り起こそうと努力しないのでしょうか。それは、私たちがあまりにも愚かだからではないでしょうか。

仏陀や祖師、また善き師友たちは、心を尽くし、力を尽くして、その鉱山の中には純金があることを明確に示してくださいました。それにもかかわらず、私たちはその教えを軽んじています。私たちは決して受け入れようとしません。日々、石ころや瓦礫を手に取りながら、それを黄金だと思い込んでいます。ああ、これではどうしようもありません。だからこそ、仏陀や祖師は私たちを愚者と呼ばれるのです。

これは修行における深い意味について述べたものです。もっと具体的に言えば、私たちは自らに問うべきです。「なぜ私は一生、智慧ある人のそばで暮らしていながら、振り返ってみると、依然として無知なままなのか。」智慧ある人が私たちに教えようとしなかったのでしょうか。それとも、私たちが学ぼうとしなかったのでしょうか。この無知はどこから来るのでしょうか。私たちが愚かだからでしょうか。それとも智慧ある人のせいでしょうか。

ここでいう智慧ある人とは、私たちの善知識のことです。その人たちはいつでも真心をもって、喜んで私たちを導こうとしてくれます。しかし、私たちは学ぼうとしません。学ぼうとしなければ、どうして仏陀の説かれた正法を理解できるでしょうか。そうであるなら、私たちは実に愚かではないでしょうか。自分の福縁に甘えすぎているのではないでしょうか。私たちは自分自身に問い直さなければなりません。今、自分はどこにいるのか。そして仏法の中で何をしているのか。自分の未来はどうなるのか。

もし私たちが時の流れにただ身を任せ、月日が過ぎていくのを少しも惜しまず、意識もなく過ごしているなら、いざなすべきことが訪れ、仏法が私たちを必要としたとき、どうして応えることができるでしょうか。そのようであれば、私たちは大いに責められるべきではないでしょうか。仏法を理解せず、自分を済度することさえまだできていないのに、どうして他人を済度することなど語れるでしょうか。そう考えると、私たちは本当に自分自身を哀れに思うべきではないでしょうか。もし本当に自分を慈しむ人であるなら、どうして智慧ある人のそばにいながら、無知なままでいることに甘んじられるでしょうか。それは、まことに責められるべきことではないでしょうか。

ここで仏陀は、慈悲をもって私たちを目覚めさせ、努力して立ち上がり、智慧ある人となるよう励ましておられます。まさか一生涯、永遠に愚者のままでいることに甘んじてよいはずがありません。もし不幸にも、自分より仏法をよく理解している人の近くで暮らすことができないなら、それは仕方のないことです。それは自分に福が薄いからです。しかし逆に、仏法に深く通じた師のそばで暮らすという大きな幸運を得ながら、学ぶことをおろそかにする人もいます。

私たちが修行し学ぶのは、自分自身のためです。誰か他人のために修行し学ぶのではありません。たとえば、自分が食べてこそ自分が満腹になるのであって、食べなければ空腹のままです。すべては自分の決断によります。私たちは自分の人生を自ら定めるのです。私たちは自分の人生という車の運転手です。もし賢明で巧みであるなら、仏道の上を日ごとにさらに前へ進むよう運転していくでしょう。私たちは自分の責務を自覚しなければなりません。

修行者の衣を身にまとうとき、私たちはすでにすべての人に向かって、自分は覚りへの道を歩んでいると宣言しているのです。さらに尊いことには、自分が覚るだけでなく、すべての人々もまた自分と同じように覚れるよう導くと誓っているのです。それが出世間の行を修める者の本願です。つまり、私たちは仏陀と祖師方が歩まれた道を、自らも歩もうと決意しているのです。その道には多くの障害や試練があるでしょう。しかし、ひとたび自ら選んだなら、私たちは断固としてまっすぐ進まなければなりません。

犠牲なしに得られる勝利があるでしょうか。多くの失敗を経ずに成し遂げられる成功があるでしょうか。まことに、失敗は成功を生み出す母です。私たちは、私たちが安らかに暮らせるよう心を尽くして世話してくださる身近な人々の深い恩に、どうすればふさわしく報いることができるかを考えなければなりません。清らかで軽やかな生活は、金銀で買えるものではありません。

どうか私たちすべてが努力して立ち上がり、智慧ある人となる決意を固めますように。そのためには、たとえ最後の一息が残るのみであっても、修行と学びに励むほかありません。そうでなければ、私たちはどれほど哀れで、どれほど慈悲を向けられるべき存在でありましょうか。

慈しみをもって互いに戒め合いましょう。
修行と学びに努め、善い根を深く植えましょう。
我執と競争心を取り除きましょう。
一言の優劣にこだわれば、後に苦しみを受けることになります。

なんとありがたい縁と福でしょう。
今日、私たちは出家の道に入ることができました。
互いを一つの家の兄弟姉妹のように見なし、
志を堅くして修行と学びに励み、六和を大切に保ちましょう。
師と祖師の恩をいつも忘れず、
心を決めて修行し学ぶことによって、速やかにその恩に報いましょう。

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