詳細解説
上の法句は、意味を明らかにするために、ひとまず二つの句に分けて考えてみましょう。第一の句は、「愚かであっても、自分が愚かであると知るなら、それは智慧である」というものです。この句では、「知る」という言葉に注意しなければなりません。なぜ「知る」という言葉に注意する必要があるのでしょうか。たとえば、眠っている人が自分は目覚めていると「知っている」と言うなら、それをどうして眠っていると言えるでしょうか。眠っているなら目覚めておらず、目覚めているなら眠っていません。眠りながら同時に目覚めている人などいません。もしそのように言う人がいるなら、それはよほど常識に反した、正気を失った人だけでしょう。ですから、「知る」という言葉はきわめて重要なのです。
昔の人は、「賢い者も死に、愚かな者も死ぬ。ただ『知る』者だけが生きる」と言いました。この言葉における「知る」とは、世間での身の処し方を意味しています。ここでいう「知る」とは、時機を知ることです。風向きに応じて身を処することを知らなければなりません。つまり、ある時には愚か者のふりをすることを知り、ある時には賢い者のふりをすることを知る必要があります。賢いふりをするにせよ、愚かなふりをするにせよ、それはただ時に応じて世の難関を通り抜けるためです。進むべき時を知り、退くべき時を知って、身を守るのです。
しかし、楊修のような「知り方」をすれば、猜疑心が強く残酷な曹操の手によって死を免れることはできません。楊修の知恵は、自分が主君よりも賢いことを示そうとするものでした。そのような知り方は、真に賢く知る者の知恵ではありません。表面上は非常に賢いように見えても、実際にはひどく愚かなのです。知恵を用いるべきでないところで用いたために、楊修は自ら災いを招き、ついには曹操の手にかかって死ぬことになりました。世の中では、自分より優れた者を喜ぶ人は多くありません。
これに対して、仏教における「知る」は別のものです。仏陀がここで説かれる「知る」の意味は、実に深く奥ゆかしいものです。自分が智慧ある者になりたいなら、まず自分の愚かさを知らなければなりません。この「知る」を日々の生活の中で常に用いてこそ、人生は意味あるものとなります。ここでいう「知る」とは、覚醒していること、気づいていることと同じ意味であると言ってよいでしょう。覚醒の中に生きる人は、当然ながら明晰な人です。
たとえば、自分が肝臓の病を患っているとします。自分の病状をよく知っているなら、肝臓を傷める強い酒を決して飲まないでしょう。そのように自覚しているなら、その人はまさに智慧ある人です。反対に、同じ病を患っていながら、酒を慎むことなく飲み続け、病を日ごとに重くしていくなら、その人はまさに智慧のない人です。なぜなら、その人は自分が病んでいることを自覚していないからです。それは、愚かであるのに自分の愚かさを知らず、自分は賢いと思い込んでいる人と同じです。
過ち、すなわち愚かさがあるとき、自分に過ちがあると知ること、これが智慧です。そう知ったなら、当然、懺悔して二度と繰り返さないようにします。それが智慧ある人です。私たちは、今自分たちが苦しみの中にあることを知っています。だからこそ、苦しみから脱する道を探さなければなりません。酒や薬物に溺れている人は、その行為自体は愚かです。しかし、自分の行いが誤っていると知るなら、それは智慧です。そして決意して依存を断てば、結果としてもはや依存の病に苦しむことはありません。そのような人は、まさに愚かさを智慧へ転じ、災いを福へと転じた人です。
この世に過ちを犯さない人は一人もいません。しかし、過ちを犯しても、それを知って悔い改め、改めるなら、その人を智慧ある人と言わずして何と言うのでしょうか。そのような人を、誰が愚者だと評価できるでしょうか。もし自分が何も分からなくなってしまったなら、その人こそ本当に迷いの深い愚者です。反対に、迷いのただ中にありながら、自分は目覚めた者だと言うなら、それこそ本当に狂った人です。
ですから、次の句で仏陀は、「愚かでありながら自らを智慧ある者と称する者こそ、まさに真の愚者である」と説かれたのです。この句の意味は、たとえば自分がただの民であるにもかかわらず、大胆にも自分は王であると名乗るようなものです。そのような者は、必ず首を失うことになるでしょう。自分の身分が民であることを知らず、恐れもなく堂々と王を名乗るから、最後には悲惨な死を迎えるのです。
また、他人のものを奪った泥棒が警察に捕まり、牢に入れられたとします。その者が、自分は智慧ある者だと言えるでしょうか。本当に智慧ある人なら、どうして他人のものを奪いに行くでしょうか。彼はまさに愚かな者でありながら、自分を智慧ある者だと称しているのです。それを愚かと言わずして何と言うでしょうか。
同じように、修行の領域においても、まだ煩悩を滅し尽くしていないのに、自分は涅槃を得たと言うなら、その人はどうでしょうか。おそらく私たちは、その人を大愚者と言うでしょう。なぜなら、あえて嘘をつき、人々を欺いているからです。修行がまったく成っていないのに、大言壮語して自分は聖果を証した者だと称する。そのような人を、仏陀は増上慢の者とされます。この種の人は仏法において実に危険です。名利や供養を得るためには罪を顧みず、自分の身が栄え、満たされさえすればよいと考えるからです。だからこそ、「愚者でありながら自分は智慧ある者だと思う者こそ、まさに大愚者である」と言われるのです。
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