聡明な人は瞬時(マバタキ)のあいだ賢者に仕えても、ただちに真理を知る。──舌が汁の味をただちに知るように。
聡明な者がわずか一瞬でも賢者と交わるならば、舌がスープの味を知るように、かれは速やかに真理(法)を悟るであろう。

詳細解説

智慧を得たいと願う人が、自然にそれを身につけられるわけではない。いわゆる「神童」と呼ばれるような特別な存在を除けば、すべての人は学び求めることによって智慧を得るのである。ところが、智慧という言葉を聞くと、人はしばしば、仏教で説かれる智慧と世間一般でいう知恵とを混同しやすい。この法句の意味を説明する前に、まず世間の知恵と仏法における智慧との違いをはっきり見分けておく必要がある。

世間では、学識が広く、多くの事柄に通じ、新しいものを発明したり発見したりする人を、賢く智慧のある人だと考える。しかし、このような混同を避けるために、仏教ではそれを「般若の智慧」と呼ぶ。別の言い方をすれば、「真実の智慧、妙なる智慧」である。これは世間を超えた智慧だからである。世間の人が用いる「智慧」という言葉は、厳密にいえば必ずしも正しくない。正確には「知識」と呼ぶべきである。なぜなら、知識とは学んだことを集め、積み重ねて得られるものであり、外から借り集めたものだからである。そのため、それはなお妄想と執着、分別の領域に属している。それは「世智弁聡」と呼ばれる種類のものである。

仏陀は、この世智弁聡を八難の一つとされた。八難とは、地獄、餓鬼、畜生、盲・聾・唖、仏の出現以前、仏の入滅以後、長寿の天界に生まれること、そして世智弁聡である。なぜこれを「難」と呼ぶのか。それは、そうした境遇では仏法に出会って修行することが難しいからである。これに対して、仏教で説く智慧とは、真実の本性の内から現れ出るものでなければならない。これは究極の智慧について述べたものである。この智慧は、禅定と観照のはたらきによって得られる。つまり、外から借りてくるものではない。この智慧には別名があり、「無師智」と呼ばれる。師に学び、教えを受けることによって得られるのではない智慧という意味である。

一方、正法を学び、探究することによって得られる智慧もある。仏教ではそれを「有師智」と呼ぶ。つまり、師の導きと教えを必要とする智慧である。ただし、仏教における智慧にもさまざまな段階がある。凡夫の智慧、二乗の智慧、菩薩の智慧、そして最後に仏の智慧である。これは修行と悟りの深さの違いに基づいて分けられる。したがって、智慧が深いものであれ浅いものであれ、修行者は成熟した修行の過程を経なければ、それを得ることはできない。

このように、ひとたび深く広い智慧を備えた人は、他人の言葉や行いを見て、その奥にあるものを見極めることができる。その人の諸法に対する理解は、非常に深く鋭敏である。その見方、その理解は、普通の人とは異なる。なぜなら、その智慧は常に明晰であり、曇りがないからである。その人はつねに目覚めの中に生きている。深みのある生き方をしており、ものごとを表面的には捉えない。常に正念の中に生きているので、身の回りに起こるどのような事柄にも欺かれることがない。

したがって、智慧ある人が智慧ある人と共にいるとき、その人の一言や一つのしぐさだけで、互いに容易に理解し合い、心を通わせることができる。二人とも同じように鋭く、敏感な理解力を持っているからである。一方が一瞥しただけでも、また一つ目配せしただけでも、もう一方はすぐに分かる。時には言葉に出す必要すらない。あるときは東のことを語り、また西のことを語っているように見えても、二人はなお互いを理解している。このような話は、禅の書物を読むと数多く見られる。

たとえば、百丈禅師と霊祐禅師の間に起こった話がある。ある日、霊祐禅師が百丈禅師のそばに控えていた。百丈禅師が尋ねた。

「誰だ。」

霊祐禅師は答えた。

「私、霊祐でございます。」

百丈禅師は言った。

「炉の中をかき分けて、火があるか見てみなさい。」

霊祐禅師は炉をかき分けて見て、答えた。

「火はありません。」

すると百丈禅師は立ち上がり、自ら炉の奥深くをかき分け、わずかな火種を見つけて取り出し、霊祐禅師に示して言った。

「お前は無いと言ったが、これは何だ。」

霊祐禅師はこの言葉をきっかけに悟りを開き、礼拝して感謝し、自らの悟ったところを述べた。これは禅師ティック・タイン・トゥー編『中国諸禅徳行状』三百二十頁に記されている。

もう一つの例として、馬祖道一禅師と在家修行者の龐蘊居士との間に起こった話がある。ある日、龐蘊居士は馬祖禅師のもとを訪ねて問法した。馬祖禅師は尋ねた。

「あなたは在家のままで修行するのか、それとも出家するのか。」

龐蘊居士は答えた。

「どうか私の願いのままに、髪を剃って出家することなく修行させてください。」

そして龐蘊居士は馬祖禅師に尋ねた。

「万法と友とならない者とは、どのような人でしょうか。」

馬祖禅師は言った。

「あなたの口が江西の水をすべて吸い尽くしたなら、そのとき私はあなたに語ろう。」

この一言によって、龐蘊居士は深い妙旨を悟った。そして彼は馬祖禅師のもとに二年間とどまった。これも禅師ティック・タイン・トゥー編『中国諸禅徳行状』二百七十一頁に記されている。

このような話は、ほかにもまだ数多くある。以上の二つの例から分かるように、二人の境地が同じ水準にあるとき、たとえ短い時間そばにいるだけでも、すぐに理解し合い、心を通わせることができるのである。反対に、智慧ある人が愚かな人と長年共に暮らしても、その愚かな人は正法の深い意味を理解することができない。

だからこそ、この法句で仏陀は明確に教えておられる。智慧ある人は、たとえわずかな時間だけ智慧ある人に近づいたとしても、ただちに正法、すなわち本心を理解する。それは、舌が薬湯に触れた瞬間に、その味を知るのと同じである。ここで仏陀は、非常に具体的なたとえを示してくださっている。「舌が味を知るように」ということである。舌は触れた瞬間に味を知り、分別を重ねてから初めて知るのではない。愚かな人はそれとは異なる。味わったとき、すぐにおいしい、まずいなどと分別の心を起こし、そこから好き嫌いが生じ、さらに業を造って苦を受けるのである。

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