詳細解説
この句は、修行者でありながら、なお執着の心を残し、世間の名誉や利益をむさぼり慕うことの害を説いています。自分が集めた花とは、自分が少しずつ蓄え、作り上げた財産や所有物をたとえたものです。十二因縁において、「愛」はこの世における原因となり、次の生に続く生死の苦しみを引き起こします。「愛着」があるからこそ「取」、すなわち執着が生じます。執着があるために業を造り、その結果、さまざまな境界に生まれ変わる存在となります。「愛・取・有」の三つは、まるで一房の実のように、きわめて密接に結びついています。人間に深い愛着が生じるのは、自我への執着があまりにも大きいからです。自我への執着には二つあります。「我」と「我所」です。「我」とは、この「私」が真実に存在すると執着することです。「我所」とは、自分が作り出した財産や所有物もまた真実に存在すると執着することです。しかし仏は、すべては幻の夢のように虚ろなものだと説かれます。人はそれを真実だと思うため、自分が作り出したものを最後まで守ろうとします。時には、財産を守ることにあまりにも縛られ、そのために身を滅ぼし、命を失うことさえあります。そこから、人間の貪りと執着がどれほど深く重いかがわかります。その重さは須弥山よりも重いほどです。しかし人は忘れています。執着が重ければ重いほど、苦しみもまたそれだけ大きくなるのです。自分自身の身体さえ保つことができないのに、まして自分の外にある財産をどうして守りきることができるでしょうか。たとえば、木の根がなければ、どうして枝葉があるでしょうか。それにもかかわらず、息が尽きかける最後の瞬間まで、人はなおしがみつき、守ろうとし、決して目覚めて手放そうとはしません。経典には、財産は五つのものに属すると説かれています。すなわち、火、水、盗賊、相続者、そして公の徴収です。この五つのいずれも、私たちの財産をすべて奪い取る力を持っています。それらは財産を奪うだけでなく、私たちの命までも奪うことがあります。誰一人として容赦されません。覚えておくべきことは、どれほど多くの金銭や財産を築いたとしても、最後には死神は決して見逃してくれないということです。ひとたび「死の国」から召集令状が下れば、どの年齢であっても、誰もが厳粛に従わなければなりません。一度その召集に応じれば、去ったきり、戻る日を約束することはできません。たとえ最高の地位や権力を持っていても、また限りない富貴に恵まれていても、死の国を避けることも、賄賂で免れることもできません。すべての人が列をなし、手を下ろし、頭を垂れて、その命令に従わなければならないのです。このことを知るなら、誰もが目覚めて修行に励み、世間への愛着と貪りを少しずつ減らし、いつか自分が召集される日に、軽やかで安らかな心で旅立てるよう備えるべきです。だからこそ、この句において仏は、私たち一人ひとりに「死神に連れ去られる日」を忘れず、努力して修行に励むよう呼びかけているのです。この世は結局、はかない幻影にすぎません。覚えておきなさい。塵は塵へと帰ります。どうかそのことを忘れないでください。どうか深く心に留めてください。
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