「財を守る者」という名の象は、発情期にこめかみから液汁をしたたらせて強暴になっているときは、いかんとも制し難い。捕らえられると、一口の食物も食べない。象は象の林を慕っている。
ダナパーラカという象は、発情期には荒々しくなり、制御しがたくなる。捕らえられていても食物に触れようとせず、ただ故郷である深い森を恋い慕う。

詳細解説

この偈は、ブッダがサーヴァッティーにおられたとき、自分の子どもたちに見捨てられた老いたバラモンに対して説かれたものである。物語によれば、その老バラモンには四人の息子がいた。息子たちが成人すると、彼はそれぞれに妻を迎えさせ、財産を平等に分け与えた。彼には八十万枚の金貨があり、各息子に十万枚ずつ与えた。妻が亡くなると、息子たちは父が再婚すれば残りの財産を得られなくなるのではないかと心配した。そこで彼らは相談し、父を大切に世話するふりをして、残りの財産も手に入れようとした。四人は協力して、食事や衣服など父に必要なものを不足なく与えた。やがて彼らは、残りの財産も自分たちに譲ってほしいと願い出た。父は情にほだされ、それにも応じ、各息子にさらに十万枚ずつ与えた。その結果、彼は何も持たない身となった。すると、息子の妻たちは彼をひどく扱うようになった。どの息子の家へ行っても、彼は冷たくあしらわれ、追い出された。虐げられた彼は悲しみ、あちらこちらをさまよい、物乞いをして暮らすようになった。ある日、彼はブッダのことを思い出し、会いに行った。子どもと嫁たちに見捨てられた苦しみを語ると、ブッダは彼を慰め、人々の前で唱えるべき偈を教えられた。その偈の中で、老父は、かつて生まれたときには喜び迎えた息子たちが、今では妻の言葉に従って自分を犬のように追い払う、と嘆いた。彼らは「愛しい父」と呼ぶが、その言葉は空虚で冷酷である。彼らは息子の姿をした悪鬼のようで、年老いた父を、役に立たなくなった老馬のように捨てた。杖のほうが不孝な子よりましだ、と彼は言った。杖は野獣を追い払い、暗闇で道を示し、泥や水を越えるとき足を支えてくれるからである。ブッダは彼にその偈を暗記するように言われた。のちに、多くのバラモンが集まり、彼の息子たちも出席していた場で、彼はその偈を皆に向かって唱えた。息子たちはそれを聞いて震え上がった。当時の法では、親の財産を受け取りながら親を養わない者は重い罰を受けることになっていたからである。彼らは父に許しを乞うた。父は広い心で息子たちを赦した。それ以来、彼らは以前のように父を敬って世話し、二度と粗末に扱おうとはしなかった。また、彼と子どもたちはしばしばブッダに食物を供養するようになった。彼らはブッダの前にひざまずき、これからは父を十分に世話し、決しておろそかにしないと誓った。ブッダは彼らをほめ、財を守る象ダナパーラカの例にならい、根源を忘れず父を大切にしなさいと教えられた。この教えを聞いて、老バラモンと嫁たちは初果に達した。相対的な世の中では、すべてのものに利益と害の二面がある。財産も同じである。利益の面から見れば、この世で生きるほとんどの人にとって金銭は必要である。金銭は生活を支える交換の手段であり、物質的生活には欠かせない。人はしばしば、金があれば多くのことができると言う。たとえ紙や金属にすぎなくても、金銭は社会の中で大きな力を持ち、多くの事柄に影響を及ぼす。富を持つ人の言葉は聞かれやすく、尊重され、世間の多くの問題を処理しやすい。反対に、貧しい人は、たとえ正しいことを言い、良いことをしても軽んじられがちである。しかし害の面から見れば、金銭は不安、争い、不眠、道徳の退廃をも生み出す。金銭に大きな力があるため、人々はそれを奪い合おうとする。過度の貪りは、人にあらゆる悪い手段を使って富を奪わせる。家族の中でさえ、相続や財産のために血縁者が互いに傷つけ合うことがある。欲望が極端になると、良心と智慧は覆い隠される。とはいえ、金銭そのものが善でも悪でもあるわけではない。利益となるか害となるかは、それを使う人にかかっている。金銭は仮の生活を支える方便として扱うべきであって、主人にしてはならない。私たちは金銭の奴隷となり、それに動かされて罪や不正を犯してはならない。中には、金銭を善のために用いる人々もいる。貧しい人、病む人、障がいのある人、不幸にある人を助け、布施や慈善を行う人々である。彼らは金銭よりも道徳と慈悲を重んじる。そうした人々は、私たちが敬い、見習うべき人である。先の物語は、その反対を明らかにしている。息子たちは、父の財産をすべて得たいという貪りのために、悪い策略を用いた。外から見ると非常に孝行であるように見えたが、実際には父の財産を奪うことしか考えていなかった。嫁たちもそれに加担した。父の手からすべてを奪うと、彼らは態度を変え、父を捨て、他人以下に扱った。老父は悲しみを抱え、涙をこらえて家を出るほかなかった。彼は物乞いとしてさまよい、どこであれ眠れる場所で眠った。自分が苦労して育てた実の子がこのように親を扱うことを思うと、深い悲しみを覚える。しかし、すべての人を同じように見るべきではない。この世にはさまざまな人がいる。習慣、業、性格の深さがそれぞれ異なるからである。嫁や婿の中にも、礼を知り、感謝を知り、配偶者の親を実の子以上に大切にする人がいる。彼らは道徳を重んじ、生命を与え、育て、教えてくれた人々に敬意と恩を示す。しかし正直に言えば、そのような人はたいへんまれである。だからこそ、親たちはそのような人を深く愛し、大切にするのである。老バラモンは家族に見捨てられたが、ブッダに会う幸いな縁を持っていた。ブッダは彼に、子どもたちの良心を目覚めさせ、過ちを認めて善に戻らせる方法を示された。最後には、子どもたちは彼を家に連れ帰り、きちんと世話をするようになった。さらに大切なことに、彼と家族は信心を起こし、ブッダと僧伽に供養し、教えを聞いて、初果に達したのである。この偈でブッダは、ダナパーラカという象について語られる。その名は「財を守るもの」を意味する。この象は発情期になると荒々しく、制しがたく、つなぎとめるのも難しくなる。捕らえられると食物にも触れず、心はただ深い森を思い続ける。その森とは、自分の生まれた根源であり、安全な住処である。たとえ荒々しく恐ろしい状態になっても、象はなお自分の故郷を忘れない。ブッダはこのことを通して、人間がどれほど粗暴で迷っていても、自分の根源を忘れてはならないと戒めておられる。その根源とは、祖先、父母、師、恩人、そして自分が生まれ育った大地である。人間である以上、私たちは尊ぶべき人々に対して感謝し、その恩に報いる心を持たなければならない。とりわけ、私たちを生み、育て、教え、支え、生活の条件を守ってくれた人々への恩は深い。もし人がこの根源を忘れるなら、ブッダは、その人は象にも及ばないと言われるのである。

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