ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩み、なおざりになることなく、わが身をととのえて、林のなかでひとり楽しめ。
ひとり坐し、ひとり臥し、ひとり歩んで倦むことなく、ひとり自らを調え、深い森の静けさに喜びを見いだす。

詳細解説

この偈は、釈尊が祇園精舎におられたとき、独り住む長老に関連して説かれたものである。伝承によれば、「その長老は、四衆の間で、ひとり歩き、ひとり立ち、ひとり坐す人として知られていた。比丘たちは釈尊のもとへ行き、その長老について申し上げた。『世尊よ、あの長老はこのように、このようにしております。』釈尊はその長老を称賛して言われた。『よいことだ、よいことだ。その比丘は独居に安住することができる。』そして釈尊は、遠離し独り住む生活を称賛され、この偈を説かれた。」(『法句経因縁譚』第三巻、Vien Chieu版、一六六頁より引用)

釈尊の時代、多くの比丘たちは瞑想修行をしやすくするため、山や森の中で独り暮らしていた。山林は静かで、人の往来も少ない。修行者たちは、騒がしく落ち着かない環境を深く避けていた。環境が静かであれば、行者は自らを顧み、煩悩を浄めることが容易になる。私たちの心はたいてい外の対象に引きずられ、止まることがない。内省し、内観することはまれである。境遇と心とは密接に関わり合い、切り離すことができない。環境が騒がしければ、私たちの心も不安になる。これは否定しようのない真実である。

ひとりで暮らすとき、はじめて私たちは自分自身をより明らかに見る機会を得る。深い山奥や人里離れた谷に住む修行者は、当然ながら多くの障害や困難に出会う。とりわけ、食べ物、衣服、住まいといった基本的な物質的必要においてそうである。しかし、解脱を求める決意を持ち、鉄のように堅い意志と勇気を備えた人にとっては、これらの困難も容易に乗り越えることができる。そこから、その人は深い徳の資質と強い道力を身につけ、自らを克服し、また他者を感化して、共に安らぎと解脱の利益を得ることができる。

これは、一般的な意味での独居の生活について述べたものである。さらに深く論じるなら、托鉢修行者の独居とは、必ずしもすべての人から遠ざかって暮らすことではない。独居の真の意味は、行者が巧みに、また常に正念に安住することにある。その人は、今この瞬間に実際に起こっていることを自覚している。過去と未来という二つの端に執着しない。生命はただ現在の一瞬にのみ現れている。たとえ多くの人と共に活動していても、さらに言えば僧伽の中で共に暮らしていても、日常のあらゆる行いの中で正念を保つことができる。釈尊は、そのように生きる人もまた、ひとりで生きる人であるとされた。

出家者の必要について言えば、どの時代においても、仏陀や祖師たちは常に、出家者の生活は食事、衣服、睡眠・休息において「常に少し足りない」ものであるべきだと教えてきた。何事も少し不足しているくらいでよく、余りすぎてはならない。率直に言えば、今日の出家者である私たちは、あまりにも多くの物質的な便利さを持っている。特に、さまざまな機械や現代的な道具である。物質が豪華になればなるほど、解脱を求めて修行しようとした最初の心は、必ず衰えていく。もし巧みに制限し、自らを抑えることができなければ、私たちの享受は世俗の人々と何ら変わらないものとなる。つまり、修行以前にあった貪りと執着の心が、そのままの姿で現れてしまうのである。これは現実に起こっている現象であり、否定できない。

この現象は、すでに、そして今もなお、深刻で危機的な形で起こっている。真に修行する人々がこれを見ると、深い悲しみを覚える。道の精神と人の心が衰えていくことを悲しみ、出家者の高貴な徳と品格がますます衰え、悲惨なほどに落ちていくことを悲しむのである。昔の人々の修行と求道の生活に照らしてみると、今日の私たちの修行生活は、彼らからあまりにも遠いと言わざるを得ない。あらゆる面で遠い。人格と道徳の面においてさえ、私たちは十分に果たせていない。まして、超越的な徳など言うまでもない。

こうして私たちは、内なる深い矛盾の穴に落ち込む。一方では解脱を望みながら、他方では世俗的な欲楽に沿う物質的な便利さを、きっぱり捨てる勇気を持てない。どのような理由や弁明を持ち出そうとも、世間の目をごまかすことはできない。さらに明らかなことには、自分自身の心をごまかすことはできないのである。

永嘉玄覚禅師の『証道歌』には、この独居の生活について述べた一節がある。

常に独り行き、常に独り歩む。
悟った者たちは、涅槃の道を共に遊行する。
古き調べは神のように清く、風はおのずから高く、
姿はやつれても骨は剛く、人は顧みない。

意訳すれば、次のようになる。

私は道の上の孤独を受け入れる。
ひとり喜び、足取りの響きに従って歩む。
ただ、同じ心を持つ法の友を願うのみ、
共に常楽の涅槃へ進みたい。
もしその願いがかなわぬなら、古風な人間として生きることを誓おう。
自分の道に従い、涼しい風と清らかな月と共に生きよう。
たとえ骨が浮き、身は痩せ、肉が衰えようとも、
悔いはない。この堅い立場を喜びとして生きる。

これは、修道の道において、ひとり生きひとり死ぬことを敢えてする勇壮な人の、決然たる意志と揺るぎない立場である。人が喜ぶところで喜び、聞いたことにすぐ従い、出会ったものを何でも信じるような人々は、いったいどこへ行き、何を成し遂げられるだろうか。彼らには堅固な立場がない。彼らの修行は、「人が行けば自分も行く」「人が修行すれば自分も修行する」というものであり、時には人が悪いことをすれば、自分もそれに従って悪いことをする。悟りを得た永嘉禅師から見れば、そのような人々は実に哀れで、憐れむべき存在である。

この世には、そのように確かな見解を持たない人が少なくない。解脱への志と立場が異なる友を持つくらいなら、道の上で孤独を受け入れる方がよい。それでも私たちは、同じ心を持つ法友を得て、共に学び、共に修行し、前へ進むことを深く願っている。もしそれがかなわないなら、それぞれが自分の道を歩むだけである。その道がどれほど困難であっても、たとえこの身が痩せ衰え、骨が浮き、肉が落ちようとも、私たちはなお堅く立場を守り、後悔することなく一筋に進むと決意する。

上の『証道歌』において、永嘉禅師は自らに語りかけると同時に、同じ志、同じ立場を持ち、道のために生死をかける人々へこの思いを届けようとした。人間存在のあらゆる苦しみから解き放たれたいがゆえに、禅師は孤独を受け入れた。それどころか、古風な人と呼ばれることさえ受け入れた。ひとりで生き、涼風と月光と共に生きたのである。

しかし現実に考えてみると、私たちは本当に孤独なのだろうか。そうではない。どうして孤独であり得ようか。私たちのそばには、いつも私たちを目覚めさせ、慰めてくれる多くの景色がある。澄んだ月、涼しい風、鳥の声、微笑む花、流れる小川、松のそよぎなど、すべてが私たちの親しい友である。もちろん、そのような友は、私たちに面倒や執着をもたらすことは決してない。そればかりか、修行、覚醒、解脱の道をより深く、より速く進ませてくれる。自然こそ、私たちの人生における真の喜びの源である。

自然の景色は、まことに詩のように美しい。
暖かな陽、澄んだ空、塵の曇りもない。
涼風と鳥の声に、心は軽やかに澄み、
静かな湖の水に、智慧はもつれた糸をほどく。
世のことは山のほとりに置き、
仏道を守る心は濁りを沈める。
西方の金の蓮を心に願い、
阿弥陀を一心に念じて、その願いを成就する。

第二十二章 地獄の章(Nirayavagga)

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