他人の過失は見やすいけれど、自己の過失は見がたい。ひとは他人の過失を籾殻のように吹き散らす。しかし自分の過失は、隠してしまう。──狡猾な賭博師が不利な骰(サイ)の目をかくしてしまうように。
他人の過ちは見やすいが、自分の過ちは見にくい。他人の過ちは籾殻を吹き分けるように暴き立てるが、自分の過ちは狡猾な賭博師が札を隠すように覆い隠してしまう。

詳細解説

ブッダはバッディヤ近郊にて、在家の信者ラムにまつわる出来事からこの法句を説かれました。ラムがブッダのもとへ向かう際、他派の教徒たちがブッダを誹謗中傷して妨害しました。ブッダは彼らの行為を指して、「他人の過失を籾殻のように厳しく選別する一方で、自分自身の過失は狡猾な博打打ちのように隠す」と教えられました。この詩句は、人間の心理の根深い欠陥を鋭く突いています。私たちは他人の欠点を暴くことには執心しますが、自分自身の過ちには盲目的になりがちです。これは「自己愛(自我)」から生じる防衛本能であり、自分の悪い部分を隠し、他人に投影する行為です。真の修行とは、この逆を行うことにあります。他人の欠点に対しては慈悲の心を持ち、自分自身の過ちに対しては鏡を見るように客観的かつ厳格に向き合うことが、解脱へと至る道であるとブッダは教えておられます。

🌿

禅AIアシスタント

オンライン

ようこそ。私はあなたの禅AI伴走者です。第 252 偈についての深い考察をお手伝いします。質問はありますか?それともその意味をさらに探求したいですか?