快楽から憂いが生じ、快楽から恐れが生じる。快楽を離れたならば憂いが存在しない。どうして恐れることがあろうか?
愛欲より憂いが生じ、愛欲より恐れが生ず。愛欲を離れたる人には、憂いなく、何ぞ恐れあらん。

詳細解説

この法句は、仏陀がヴェーサーリー近郊の精舎におられた時、リッチャヴィ族の王子たちに関連して説かれたものである。伝承によれば、ある祭りの日、リッチャヴィ族の王子たちはさまざまな装身具で華やかに身を飾り、町を出て祭りの場へ向かった。その時、仏陀は托鉢のために町へ入ろうとしておられ、道中で彼らに出会われた。仏陀は比丘たちに言われた。

「比丘たちよ、あのリッチャヴィ族の王子たちをよく見なさい。三十三天の神々をまだ見たことのない者は、この王子たちを見ればよい。」

祭りの場へ向かう途中、王子たちは一人の遊女に出会い、彼女を連れて行った。美しい女性を前にして、彼らは互いに張り合い、やがて争いとなり、ついには激しく殴り合って傷を負わせ合った。血は川のように流れ、人々は集まって、傷ついた王子たちを王宮へ運ばなければならなかった。

仏陀と僧団は食事を終えて精舎へ戻る途中、その光景に出会われた。比丘たちは仏陀に申し上げた。

「世尊よ、今朝早く、リッチャヴィ族の王子たちは神々のように華やかに町を出て行きました。それなのに今は、たった一人の女性のために、このような悲惨な姿になってしまいました。」

仏陀は説かれた。

「比丘たちよ、貪欲のあるところには、必ず悲しみと憂いがある。」

貪欲は苦しみを生み出す原因である。この物語が示しているように、ただ一人の美しい女性のために、王子たちは親しい間柄から憎しみ合う者へと変わってしまった。彼らは奪い合い、命がけで争った。これは人間によく見られる心理である。昔から、人は美しい姿を前にすると、道徳も人としての情も忘れてしまうことがある。

昔がそうであったなら、現代はどうであろうか。昔は仏陀が世に現れた時代であり、正しい教えがまだ明らかに行われていた時代であった。それでも、人の欲望は美しさを前にしてなお強く迷い、執着し、このような出来事が起こったのである。まして現代は、仏陀の時代から遠く離れ、正法が衰え、悪しき力がはびこり、道徳が衰微した時代である。美しさをめぐって人々が奪い合い、傷つけ合い、殺し合うような悪弊が起こらないはずがない。このことから分かるように、どの時代であっても、人間が道徳的な品格と人への思いやりを欠けば、同じ人間に対して多くの痛ましい害をもたらすのである。

経典には、欲には二種類あると説かれている。すなわち、雑染の欲と善法の欲である。雑染の欲とは、心の内側では煩悩に汚れ、常に清らかではない欲であり、外側では名声や利益、五欲や六境に執着する欲である。人間の欲望は決して満たされることがない。欲が多ければ多いほど、その人は多くの苦しみに縛られる。反対に、欲が少なく、足ることを知って生きる人は、苦しみに苦しめられることも少ない。

一方で、人のために奉仕したいという理想を抱き、善い行いをし、社会のために役立つ働きをしようとする願いもまた一種の欲である。しかしそれは善い欲である。社会福祉のような活動も、すべて唯一の目的、すなわち他者を利益し、自分だけの利益を考えないという目的に向けられているなら、それは善なる欲である。社会には、このような善い欲が非常に必要である。これは社会的な次元で言う場合である。

さらに高い意味での欲もある。たとえば、悟りの果を成就したいと願うこと、あるいは阿弥陀仏の清らかな世界に生まれたいと願うことなどである。これも善法の欲である。

この法句において、仏陀はすべての人に対して、自分自身、家庭、そして社会に安らぎと幸福のある生活を望むなら、それぞれが自覚して貪欲を少しずつ抑えなければならないと諭しておられる。そして苦しみを終わらせたい者に対して、仏陀は、愛欲を完全に離れなければならないと教えられた。そうすれば、もはや憂えることも恐れることもなくなるのである。

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