愛するものから憂いが生じ、愛するものから恐れが生ずる、愛するものを離れたならば、憂いは存在しない。どうして恐れることがあろうか?
愛着から悲しみが生まれ、愛着から恐れが生まれる。愛着から離れた者には、悲しみはなく、恐れもない。

詳細解説

この法句は、仏陀が祇園精舎におられた時、ある在家の弟子に関連して説かれたものである。伝承によれば、ある在家信者がいた。彼は亡くなった息子を深く愛していたため、息子の死後も火葬場にたびたび通い、悲しみに暮れて激しく泣き続け、どうしてもその悲嘆から離れることができなかった。

仏陀は衆生の機根を観察され、その在家信者には聖果を悟る素質があることを知られた。そこで托鉢を終えられた後、仏陀は一人の侍者を伴って彼の家へ向かわれた。挨拶を交わした後、彼は仏陀を家の中へお招きした。仏陀がその悲しみの理由を尋ねられると、彼は自分の胸の内にある深い悲しみを仏陀に打ち明けた。そこで仏陀は、息子の死のために苦しみ悲しみ続けるべきではないと諭され、さらに彼の過去世の因縁を思い起こさせるために、次のような偈を説かれた。

蛇が古い皮を脱ぎ捨てるように、
人は別の世界へ旅立っていく。
後に残されるのは、ただこの身体だけである。
その身体はすでに死んでいる。
もはや悲しみも喜びも知らない。
炎が燃え上がり、
その身を焼き尽くしている時でさえ、
彼は親族の泣き声を聞くことはない。
嘆き悲しむ声も届かない。
だから私は、彼の死によって、
苦しみ悲しむことはない。
彼はすでに去り、
行くべきところへ向かって行ったのである。

仏陀が過去世の物語を語られるのを聞くと、その在家信者ははっと目覚めた。そして、それまで長く彼の心を覆っていた苦しみと悲痛は、たちまちのうちに消え去った。それ以来、彼は精進して修行に励み、ほどなくして聖果を得た。以上が、この物語の概略である。

愛欲は苦しみの根であり、あらゆる不安と恐れの根である。人間にとって最大の恐れは死への恐れである。しかし、どれほど恐れても、最後には死は必ずやって来る。死とは、愛する人から離れる現象である。再び会う日を持たない、永遠の別離である。しかし仏教において、死は世間の人々が誤って考えるような完全な消滅を意味しない。死とは、ただ一つの境涯から別の境涯へと変化する現象にすぎない。人は自ら造った善悪の業に応じて、それぞれ異なる苦楽の果報を受けるのである。

たとえば雲が消え、別の状態である雨へと移るようなものである。雨は雲の継続した現れである。雨粒は縁に応じて、さらにさまざまな姿として現れる。このように、相互依存によって生起する法則の中で、絶えず変化し続けている。そう理解すれば、人はもはや死を前にして不安や恐れを抱く必要はなくなる。

道を悟った人々にとって、死は戯れのようなものである。ある人が一人の禅の師に、生死とはどのようなものかと尋ねた。師は二句の詩で答えた。

広大な空に、たとえ太陽と月がともに飛んでいても、それが何であろうか。
果てしない大海に、一つの小さな泡が浮かんだところで、何を妨げようか。

この二句が暗に示しているのは、広大無辺の空に比べれば、太陽と月、すなわち生と死にたとえられるものに、どれほどの意味があるだろうか、ということである。また、果てしなく広い大海の中で、一つの小さな泡が漂ったとしても、何の妨げになろうか、ということである。泡は生死のたとえである。

私たちは通常、太陽と月だけを見て、広々とした大空を忘れてしまう。同じように、小さな泡だけを認めて、広大な海を忘れてしまう。大海と空は、私たちの覚りの本性、すなわち清らかで明るく真実なる本心のたとえである。一方、泡や太陽と月は、人間の生死のたとえである。空と大海は生じることも滅びることもない。しかし泡や太陽や月には、生起と消滅がある。生滅する身心を自分であると認め、それを真の自己だと思い込むことを、仏陀は愚痴であり、転倒した見方であると説かれた。

先に述べた物語を通して、私たちは愛する者との別離がいかに切実で痛ましい苦しみであるかを見ることができる。その在家信者は息子の死を悲しんで泣き、食事も睡眠も忘れ、惜しみ悲しむ心を止めることができなかった。この世に、自分の血縁や愛する身内を失って悲しまない人が、いったいどれほどいるだろうか。しかし、その深い悲しみも、彼が仏陀に出会い、慰められ、道理を詳しく説き明かされた時、ほどなく消え去った。そしてその時から、彼はもはや感情に沈み、苦しみ続けることはなかった。なぜなら、生まれたものは必ず死ぬからである。それは誰一人として避けることのできない普遍の法則である。

死は昔から変わらぬ法則である。
それを避けられる者がどれほどいるだろうか。
それを免れられる生命がどれほどあるだろうか。
むしろ、清らかな念をもって祈り、
亡き人が苦難を越えられるよう願うがよい。

この世の生・老・病・死は、
滅しては生じ、生じては滅する、
戯れの筋道を描くようなものである。

滅しては生じ、生じては滅することは、ただの現象であり、偽りであって実体はない。それは、空中に見える幻の花のようであり、夕暮れにひらめく稲妻の影のようであり、水面に一本の線を描いて遊ぶようなものである。すべては幻のようであり、虚ろで実体のないものである。生死もまた同じである。ただ戯れとして線を描くようなものにすぎない。

そう理解すれば、心を煩わせたり、不安に思ったり、恐れたり、惜しみ悲しんだりする必要はない。どれほど惜しんでも、花はやはり散るからである。花の本質は無我であり、因縁によって仮に和合したものであり、無常である。だから花は生じ、そして散る。それは自然の道理である。人の生死、存在と喪失もまた同じであり、その花と何も変わらない。咲いて枯れない花があるだろうか。生まれて死なない人があるだろうか。

花が枯れてごみや土に還ると、そのごみや土はまた有機の養分となり、花や葉をふたたび生き生きと育てる力となる。そうであるなら、ごみを見る時、そこに潜在している花の姿を見ることができるし、花を見る時、そこに潜んでいるごみの姿を見ることもできる。ごみはすなわち花であり、花はすなわちごみである。これが般若における色即是空の理である。このような智慧によって物事を見るなら、どうして解脱しないことがあろうか。

私たちは物事を見る時、しばしば誤った執着の眼鏡を通して見る癖がある。そのため多くの誤った認識が生じる。物事を見る時、その相にとらわれてしまうので、物事の無相を見ることができない。花の形だけを見て、花の無相を見ることができない。このように相にとらわれているため、花が散ると、花が完全になくなったと思い込み、悲しみに沈み、嘆き泣く。しかし、花がごみや土へと変わっていくことを見ることができない。そうであるなら、花はどこにも失われていない。ただ、花が一つの形から別の形へと変化しただけである。ごみや土となれば、それはまた縁に応じて、花や他の植物として現れる。そうであるなら、何を不安に思い、何を恐れ、何を悲しんで泣く必要があるだろうか。

電球は長く使えば、当然いつか切れる。しかし、その電力の源そのものが切れることなどあるだろうか。電気には形がないため、無常、生滅の法則に支配されない。反対に、電球には形があるため、生じることも滅びることもあり、無常の法則によって壊される。電力は、あらゆる生命に通じる尽きることのない生命の源のたとえである。その生命の源は、経典ではしばしば仏性、あるいは法性と呼ばれる。すなわち、あらゆるものの本来的な本性である。電気はただ縁に応じて生じ、別の形で現れるだけである。実際には、電気そのものが失われることは決してない。

さらに厳密に言えば、この世のあらゆる現象には、失われるものもなく、固定して存在し続けるものもない。すべては、縁起、無我、因果、輪廻という法則に共通して従っている。生きることも死ぬことも、ただ生命の流れの表面に現れた一つの現象にすぎない。このように深く禅観することができて初めて、私たちは不安や恐れから離れ、人生におけるあらゆる苦しみと束縛を超え出ることができるのである。

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