詳細解説
前の二つの法句において、仏陀は情愛の束縛がもたらす苦しみを示し、それを強く戒められた。人生において、感情をまったく持たない人はいない。しかし、愛には高尚で清らかな愛もあれば、卑しく哀れな執着の愛もある。高尚な愛とは、広く開かれた心を持ち、寛容で人を赦し、常に自分自身と世の中をより美しくしたいと願う人にのみ備わるものである。それは自己を捨て、他者のために慈しみの心を広げる愛である。
私は深く濃やかな愛を抱いている。
人生を愛し、万物を愛し、山河を愛する。
その愛は宇宙いっぱいに満ち、
ただ美しい人だけを愛するのではない。
もし愛されたいと願うなら、
心の向きを変えなさい。
人々に奉仕する方へと心を向けるなら、
大いなる愛の中に私の愛を見いだすだろう。
私は一つの大きな愛を背負っている。
海に誓い、山に誓うほどの愛である。
その愛は誰か一人だけのものではなく、
あらゆる生命、あらゆる衆生を愛するものである。
これに対して、卑しく低い愛とは、自己中心的な愛であり、自分の利益だけを考え、他者を思いやることを知らない愛である。たとえその人が他人を愛しているように見えても、実際には自我のために愛しているにすぎない。これは苦しみを生む利己的な愛であり、常に衰え、しおれ、やがてその人の心は乾ききり、年月とともに少しずつ死んでいく。
法句二一〇において、なぜ仏陀は、好ましい人と交わってはならない、また好ましくない人とも交わってはならない、と教えられたのだろうか。普通、人は自分が好感を持つ相手と親しく付き合いたがる。では、なぜ仏陀はそのような人と交わるなと言われたのか。それは世間一般の交際のあり方に反しているのではないか。初めて聞くと、仏陀の忠告はあまりにも厳しすぎるように思える。しかし心を静めてよく考えてみると、仏陀が人間の心理と感情を非常に深く見抜いておられたことが分かる。
愛と憎しみは、世間の表面的な人間関係の中で互いに対立する二つの感情である。自分が好む人には、当然ながら深く絡みつき、多くの煩いを背負うことになる。その人に親切にし、相手を満足させれば相手は喜ぶが、そうでなければ相手は嫌う。今日その人が自分に良くしてくれれば、こちらも好意を抱き、親しく行き来したくなる。反対に、何かの理由でその人が自分を悲しませたり不快にさせたりすれば、当然怒りが起こり、やがて互いに遠ざかる。こうして二人の感情にはすぐにひびが入り、傷がつく。上手に接しなければ、ときには憎しみに変わることさえある。親友が敵になることは、この世では珍しいことではない。
だからこそ、次の四句を心に用いるのがよい。
「愛があれば憎しみもあると知るなら、
むしろ憎まず、愛にも執着しないほうがよい。
愛憎のない心を保つことができれば、
愛と憎しみの外へ出ることができる。」
この世の愛憎は、手のひらを返すように変わりやすい。愛すれば良いものに見え、憎めば悪いものに見える。昔、弥子瑕は衛の国の君主にたいへん寵愛されていた。当時の法では、君主の車を盗んだ者は足を切られる罰を受けることになっていた。ところが、母が重病だと聞いた弥子瑕は、夜中に君主の車を使って出かけた。君主はそれを知ると、罰するどころか、彼はなんと親孝行な人だろう、足を切られる罪を知りながら母のために車を使ったのだ、と褒めた。別の日、弥子瑕が君主と庭を散策していた時、おいしい桃を食べていた。彼は半分食べた残りを君主に差し上げた。すると君主は、こんなにおいしいものを私に譲ってくれるとは、と褒めた。ところが後に、君主が彼を信頼しなくなり、愛さなくなると、以前のそれらの行為を罪として取り上げ、君主を欺いた罪で弥子瑕を処罰せよと命じた。
世のあり方とはこのようなものである。人間の愛憎は天候のように、暑くなったり寒くなったりして一定しない。気に入れば酸っぱいものも甘いと言い、嫌いになれば甘いものも酸っぱいと言う。もし心の中に煩わしさや面倒や混乱を抱えたくないなら、自分の感情を他人に利用され、揺さぶられないようにするのが最善である。他人に簡単に操られてはならない。自分が好む相手に対しては、人はしばしば過度に相手に合わせ、機嫌を取ろうとする。相手の気分を損ね、親しさが傷つくことを恐れ続けるのである。
世間で人と接してきた経験から分かるのは、自分が過度に愛し、甘やかした相手によって、必ず多く苦しめられるということである。むしろ普通の程度で接するほうがよい。愛しすぎた者同士が、後に深く傷つけ合うような状態は避けるべきである。誰かを深く愛しすぎると、その人のそばに第三者が現れた時、嫉妬の心が生じやすい。嫉妬が強くなればなるほど、愛している相手は不快になり、心を乱される。自尊心や自己の尊厳が傷つけられたと感じるからであり、その結果、二人は離れやすくなる。したがって、その人がどれほど魅力的であっても、互いの情をほどよい普通の範囲に保つべきである。最初に好感を抱いたからといって、すぐに露骨に愛情を示し、急いで過剰に良くしすぎて、後になって後悔を招いてはならない。普通に行き来し、節度を保って接すれば、友情は長く続く。私たちは「人生最大の借りは感情である」という言葉を忘れてはならない。
ここで仏陀が私たちに教えようとしておられるのは、内面が安らかで幸福な生活である。そのためには、「好ましいもの」と「好ましくないもの」という二つの対立した範疇を超えなければならない。なぜなら、好ましいという感情の中には、すでに好ましくなくなる種が隠されているからである。深く見つめ、よく観察すれば、そのことははっきり見えてくる。つまり、好む相手によっても苦しみ、好まない相手によっても苦しむのである。世間一般の交際について言えば、事情はこのようなものである。
さらに一歩進んで、男女の愛の領域を見れば、愛していながら会えないことは、まことに大きな苦しみである。この世には、愛する相手と会うことがかなわず、さまざまな障害や隔たり、苦くつらい事情を乗り越えることができなかったために、自ら命を絶ってしまった若い男女がどれほど多くいることだろうか。
ある詩人は「急いで愛してはならない」という詩を書き、若い人々に対して、愛の領域に足を踏み入れる時には慎重であるようにと戒めた。彼は、若者たちに、軽率に、衝動的に、深く考えず、よく判断せず、慎重に思案しないまま愛してはならないと勧めている。自分が本当に心を託し、信じて愛そうとする相手を、成熟した心でよく理解しなければならない。そうしなければ、後になって苦しみと恨みを自ら招くことになる。
急いで愛してはならない。
まだ清らかな心を持つ人よ、
若い日々の純真をそのまま保ち、
澄んだ歌を楽しく歌っている人よ、
どうか苦しみの愛の道へ急いで足を踏み入れないでほしい。
愛を置くべきでない場所に置きながら、
それでも愛し続け、重い悲しみを背負う人は多い。
一度の愛で歩みを誤り、過ちを犯せば、
心は凍りつき、冷えきり、悲しみに沈む。
愛をもてあそび、傲慢に振る舞ってはならない。
愛の道は激しく荒々しいものだ。
一瞬足を踏み外せば、生涯の後悔となり、
空いっぱいの苦しみと痛みを自ら招く。
若い女性は心が軽く、未熟なことも多い。
甘い蜜のような言葉を聞けば、たやすく信じ、愛してしまう。
多くを与えても、受け取るものはわずかであり、
裏切りを知った時には、身も心も滅びてしまう。
愛の歴史には悲劇が数多く記されている。
愛する時、人は人生のすべてを差し出してしまうからである。
愛は遊びごとではない。
どうか天が顧みてくれないなどと急いで責めないでほしい。
愛する人に捨てられ、
夜ごと静かに涙を拭う者はどれほど多いことか。
愛の戦場で、身を沈め、
果てしない悲しみと恋慕の中に自分を埋めた者も多い。
また、縁が気まぐれで複雑だと責めてはならない。
愛には多くの曲折、すれ違い、苦く恥ずかしい別れがある。
なぜなら、愛は遊びではないからだ。
一瞬の喜びが、永遠に続く苦さとなることもある。
どれほど多くの人が泥の中に落ち、傷だらけとなり、
冒険の歩みを途中で断たれ、人生を台無しにしたことだろう。
嵐の海に漂う小舟のように、
生きているとも死んでいるとも言えず、人らしさを失ってしまう。
疲れ果てた世のほこりの中で人生を引きずり、
心は何層もの雲の奥で締めつけられるように痛む。
相手を残酷だと責めてはならない。
むしろ、自分自身の軽率さを責めるべきである。
愛することは死ぬことであり、愛はさらに罪を重ねることにもなる。
愛してしまえば、会うために苦労を重ねるからである。
一度愛すれば、体の細胞すべてが死んでしまうように感じ、
宇宙も空間も呼吸を止めたように感じる。
幼く純真な年頃の人々に伝えたい。
まだ愛していないなら、どうか急いで愛を求めないでほしい。
心を穏やかに保ち、若い日々の美しさをそのままにして、
清新で美しい青春の日々を十分に味わってほしい。
真実の愛においては、誰かを愛する時、人はその相手を理解し、共感し、喜びも悲しみも生涯にわたって分かち合いたいと願う。だからこそ、私たちは非常に慎重に判断しなければならない。出会いの初めに聞いた甘い言葉に惑わされ、情熱に流されて、危険な冒険に急いで踏み出してはならない。そうすれば、後に苦くつらい後悔の泥沼に沈むことになる。これは、若い人々が愛の領域に足を踏み入れる時、慎重に、用心深くあるべきことを示している。愛は遊びごとではない。
成長したばかりの若い人の中には、未熟で、愛の経験がまだないために、相手をよく理解し、成熟した判断をすることもなく、急いで愛してしまう者が多い。その結果として、後には破綻し、心は砕け、悲しみは深く、まことに痛ましい悲劇となる。
愛し合っていながら会えないことが苦しみであるのはもちろんだが、反対に、憎む相手と再び会わなければならないこともまた苦しみである。これを「怨憎会苦」と言う。したがって仏陀は、人間には多くの苦しみがあると説かれた。憎む者と会う苦しみのほかに、愛する者と別れなければならない苦しみもある。これは人間の生における八つの大きな苦しみのうちの二つである。相対的で無常な、生成と消滅の世界に生きている以上、誰一人として、このような悲しみと苦しみ、煩いの束縛を避けることはできない。
だからこそ、前の二つの法句において、仏陀は私たちに、感情の領域において慎重でなければならないと教えられたのである。愛しても苦しく、憎んでも苦しい。苦しみとは、心が悩み、不安になることだからである。修行者は心を安らかにしたいと願う。心が安らかであれば、そこに安楽と幸福がある。このように、仏陀は私たちに、日々の現実の生活の中で安らぎと幸福を得させようとしておられる。愛も憎しみも、どちらも私たちの心を煩わせ、乱れさせる。だから仏陀は、愛憎の念を持たないようにと勧められたのであり、そうすれば、もはや何ものも私たちを縛ることはできないのである。
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