この世の中は暗黒である。ここではっきりと(ことわりを)見分ける人は少ない。網から脱れた鳥のように、天に至る人は少ない。
この世は盲目である。ここに洞察を持つ者は極めて少ない。網から逃れた鳥のように、天上の境地へ向かう者はほとんどいない。

詳細解説

この物語はアッガーラヴァ精舎で起こったもので、ある織工の少女に関わる。仏陀がアーラヴィーに到着されたとき、人々はたいへん喜び、仏陀を招いて食事を供養した。食事を終えられた後、仏陀は人々に死を観ずる修行について説かれた。聴衆の中に、布を織って暮らしている十六歳の少女がいた。彼女は仏陀の教えを聞いてから、三年のあいだ常に死を観念し続けた。しばらくして、仏陀は観察によって、その少女の寿命がもはや長くないことを知られた。そこで仏陀は、彼女に会うために再びアーラヴィーを訪れられた。仏陀が来られたと聞いて、少女はたいへん喜んだ。しかし布を織る仕事の最中であったため、すぐに仏陀に会いに行くことができなかった。仏陀はそれを知っておられたので、食事を終えられてもすぐには説法されず、少女が来るのを待たれた。少女は布を織り終えると、すぐに走って仏陀に会いに来た。仏陀は少女にいくつかの問いを投げかけられたが、彼女はそのすべてに正しく答えた。仏陀は彼女を称賛された。その一方で、そこに座って聞いていた他の人々は不快に思い、少女を責めるようにひそひそと話し合った。彼らには、仏陀の問いがどれほど深く、巧みに意味を含んだものであるかが分からなかったのである。ただその少女だけが、仏陀の深い意図を理解していた。そしてこの因縁によって、仏陀はこの法句を説かれた。世の人々のほとんどは死を恐れる。死の変化が実際にどのように起こるのかを知らないにもかかわらず、死という言葉を聞いただけで、人は慌てふためき恐れる。人が死を恐れるのは、誰もが生きることに執着しているからである。たとえ非常に苦しい生活を送り、何の楽しみも味わえない人であっても、死のことを語られるとやはり恐れる。ここで仏陀は、死を恐れたくない者は、常に死を観念しなければならないと教えられる。なぜなら、死は揺るぎない法則だからである。生まれたものは必ず滅する。しかし、死は終わりではない。たとえば、灯っていた電球が突然消えると、人は電気そのものがなくなったのだと思い違いをする。しかし実際には、電球が切れただけであり、電流が失われたわけではない。それなのに人は、電気を失ったのだと思って恐れ続ける。ただ新しい電球に取り替えれば、光はすぐに戻る。電球は何らかの条件を欠いたために、それ以上光り続けることができなくなっただけである。この身体も同じである。この身は縁が集まって成り立っている。縁が十分にそろっている間は、仮に生きていると言う。身体のどこかの部分が壊れると、生命活動は続かなくなる。続かなくなるとは、肉体が保てなくなるということであり、心識の流れが消え去るという意味ではない。電球がもう光らなくなるのであって、電流そのものがなくなるのではないのと同じである。仏陀が私たちに死を観念せよと教えられるのは、ただ生滅、滅してまた生じるということを見つめさせるためである。大切なのは、死を恐れたくないなら、死に対して十分に備えなければならないということである。では、どのように備えるのか。仏陀の教えに従い、善をなし、悪を避け、善因を修め、徳を積み、節制し、念仏し、固く志を立てて修行することで備えるのである。たとえば、冬が寒いことを私たちは知っている。寒さを恐れたくないなら、各自が防寒のためのもの、すなわち暖かい衣服、毛布、敷物、暖房などをあらかじめ準備しておくべきである。十分に準備しておけば、冬が来ても恐れることはない。冬は必ず来ると知っているからである。仏陀は、それを智慧ある人と呼ばれる。それは、死について盲目的に恐れることのない人である。さらに深く死を禅観するなら、私たちはトウモロコシの木を見て、その中に穀粒を見ることができる。雲を見て、そこに海や川や湖の水を見ることができる。すべては時の流れに従って姿を現しているだけであり、何かが失われるのでもなく、何かが永遠に存在するのでもない。テレビ画面に映る動く映像を見るとき、電源を切ればその映像はもう動かなくなる。私たちはそれが完全に消えたと思いがちである。しかし、それはどこかへ失われたのではない。再び電気が通じれば、映像はまた動き続ける。このように理解すれば、死について何も恐れる必要はなくなる。長く走り続けた車は、やがて壊れる。壊れてもう使えなくなれば、手放さなければならない。汚れて破れた衣服は、別の衣服に着替える必要がある。この車を手放し、別の車を買うのである。重要なのは、より良い新しい車を買えるよう、十分な資力を準備しておくことである。同じように、死は必ず訪れる条件である。重要なのは、次に受ける身がより美しく、より良いものとなるよう準備しておくことである。そのためには、自分の願う身を得られるよう、修行に励まなければならない。因果の法則によれば、良い因を作れば、当然、良い果報を受ける。そこにこそ、私たちの進む方向を決める権利がある。私たちは、網を脱した鳥となったなら、広大な天地を見渡すために高く空へ飛び上がる、と決意しなければならない。地面すれすれに低く飛んで、再び業の網にかかってしまってはならない。そのときになって、たとえ鳥が網から逃れて高く飛びたいと願っても、ああ、すでに遅すぎるのである。このように深く禅観する人を、仏陀は智慧ある人であり、遠く広く見通す人であるとされた。その人は、もはや妄執や偏った見解にとらわれず、悪業を造って死の力に引きずられ、苦しみと絶望の道へ進むこともないのである。

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