人のいない林は楽しい。世人の楽しまないところにおいて、愛著なき人々は楽しむであろう。かれは快楽を求めないからである。
世俗の者が喜びを見出さない森は、魅力的である。情欲のない者たちはそこで喜びを見出すだろう。彼らは感覚的な快楽を求めないからである。

詳細解説

この法句は、ある女性に関連して、釈尊が祇園精舎で説かれたものである。その女性は恋人と会う約束をしていたが、いくら待っても相手が現れなかったため、気晴らしに遊園へ向かった。そこへ行くと、一人の比丘が木の下で結跏趺坐し、静かに坐禅しているのが見えた。彼女は比丘の前に進み出て、誘惑しようとして衣をすべて脱ぎ、裸になり、何度も脱いだり着たりしながら、手を打って笑った。そのとき、その比丘の心は大いに動揺し、いったい何が起こっているのか分からなかった。釈尊はそのすべてをご覧になっていたが、香室に静かに坐したままでおられた。そしてその後、こう告げられた。「比丘たちよ、欲楽を追い求める者の住むところには、真の楽しみはない。しかし欲楽を離れた者の住むところには、まことの楽しみがある。」そう言い終えると、釈尊は光を放ってその比丘の前に姿を現し、この法句を説かれたのである。世間の快楽を享受することについては、大きく三種類の人に分けることができる。第一は、世の流れに流され、享楽と堕落を追い求める人々である。この種の人々は、遊びにふけり、放縦に暮らし、明日のことを考えない。彼らは、花が飽き、枝がうんざりするまで遊び尽くし、石ころのように転がりながら、果てしなく憂いに酔い続けるような人々である。この種の代表として、今日世界の各地に見られる多くの若い男女を挙げることができる。社会は彼らのことで頭を抱え、心配している。彼らは退廃的で乱れた生活を送り、ついには法に触れる道へ入っていく。彼らは世の中などどうでもよいという態度で生きている。もちろん、彼らには彼らなりの理由がある。彼らの生活環境は、娯楽の場や路上の世界である。彼らは学業を途中で投げ出し、未来を考えようとしない。ただ麻痺させるような快楽を味わうことだけを知っている。彼らは麻薬や酩酊をもたらすものと親しい伴侶になってしまっている。それなしではいられない。食事を我慢することはできても、吸うことや用いることを我慢することはできない。彼らはすでに、また今もなお、依存の道へと入っている。これは単なる娯楽ではない。堕落の快楽である。家族と社会にとって、もっとも痛ましい現実の一つである。彼ら自身もまた、自ら苦しみを招いている。自分の身体をひどく苦しめている。まるで火に飛び込む蛾のように、光へ向かって突き進み、自らを焼いているのである。彼らも苦しみを知っており、ときにはもがいてそこから抜け出したいと思う。しかし、目に見えない手に引き戻されてしまう。強く締めつけられ、もがくすべがない。もがけばもがくほど、さらにきつく締めつけられる。彼らが目覚め、善い道へ戻ろうとすると、社会は彼らを軽蔑する。人々は彼らを見下し、嫌悪の目で見る。すると彼らはいっそう劣等感を抱き、社会に対する不満と憤りを深める。昔の癖に戻る馬のように、彼らは再びもとの道へ戻ってしまう。その昔の道とは、香り高い花や珍しい草が満ち、やさしく清らかな泉が流れる道ではない。罠に満ち、茨に覆われ、若く美しい肌を引き裂くような道である。本来その年頃は、生命力に満ちあふれ、世の中と社会を美しくするために伸びていくべき時期である。彼らは国の未来を担う愛すべき子どもたちである。けれども、ほんの一瞬足を踏み外せば、ああ、千年の後悔となる。そこから彼らは世を深く憎むようになり、さらに深みに沈んでいく。彼らは光の中へ出て、新しい人生を築き直したいと願う。かつて無邪気で清らかだったころの人生を取り戻したいと願う。しかし社会が彼らを再び暗闇へ押し戻してしまう。その暗闇は厚く、恐怖と痛みと涙に満ちている。まことに胸の凍るような光景である。どうか人々は心を広く開き、彼らをより深く理解し、愛してほしい。時には、私たちには分からない事情によって、彼らがそうなってしまったのかもしれない。いずれにせよ、彼らもまた人間であり、熱い血を持ち、人間らしい情の素地を十分に備えている。ただ不幸にも、足を滑らせて泥沼に落ちてしまったのである。彼らは罪の汚泥の中へ、すでに、そして今もなお深く沈みつつある。これは、人生に足を踏み出したばかりのときから道を誤り、迷ってしまった人々の一つの姿である。彼らは物質的堕落の旋風に巻き込まれ、退廃の海へと流されてしまった。ある夜の闇の中で、自分の姿を振り返ると、それはまるでさまよう幽霊のようであり、身体も心もすっかり傷つき果てている。実に哀れで、深く同情すべき姿である。第二の種類の人々は、先に述べた人々ほど痛ましくはない。彼らはまだ少しは幸運であるが、賭け事や酒に酔うことを好む。昼も夜も賭場に入り浸り、あるいは燃えるように強い酒の杯のそばに身を置く。家庭のことを顧みず、妻子を放り出す。時には手持ちの金がなくなると、妻子を苦しめ、殴りつけることさえある。最後には家庭は崩壊し、妻子は散り散りになり、それぞれ別の道へ離れていく。彼らは独り寂しく生き、悲しみと恨みを胸に抱き、無明と罪の濃い闇の中へ自分の人生を埋めてしまう。また一時の快楽に溺れて歓楽の場へ行き、楽しみを買おうとする人もいる。しかし楽しみは見つからず、かえって一生病に苦しむことになる。自分を苦しめ、人を苦しめ、社会に災いを及ぼすのである。以上のような堕落した快楽を求める二種類の人々のほかに、比較的健全な楽しみを求める人々もいる。彼らは囲碁や将棋などの遊び、歌や舞、音楽などによって気晴らしをする。これは誰にも害を与えない楽しみである。彼らは、生計を立てるために苦労の多い生活をしているのだから、心をゆるめ、くつろぐひとときが必要だと考える。このような人々はあらゆる年齢層に見られる。人によっては、それぞれの好みに応じて別の楽しみを持っている。週の初めから週末を待ち望み、小さな舟に乗って釣りに出かけ、大海原にゆらゆらと浮かぶ。親しい友人を誘い、少しの食べ物とビール、あるいは温かい酒の瓶を携えて、釣りをしながら味わう。彼らは晴れた空と白い雲を眺めることを好む。空と海と水の広がりの中に身を置くと、心は大きく開かれ、世の煩わしいことに縛られない。世の栄枯盛衰はそのままに任せ、政治の争いや人々のもめ事に関わろうとはしない。同じ趣向をさらに深めた人々もいる。昔の東アジアには、学問を修めた人々の中に、人生の浮き沈みを長く経験したのち、晩年になると庭や田園へ戻り、静かな暮らしを楽しむ者が多くいた。たとえばある古人は、秋の月夜の心の喜びを詩に詠んだ。老いた木々は青々と茂り、深い陰を落とす。夜になると、心はのびやかに解き放たれ、静かに詩を吟じる。風がそよぎ、俗世への思いは消え、明るい月が照らして、道を求める心は澄みわたる。白髪は老いを告げ、黄色い菊は酒に映えて秋の深まりを知らせる。名利は荒波のように尽きないが、なぜいつまでも追い続けるのか。世の盛衰を思えば、迷ってはならない。これに対して、修行者の楽しみは、以上のような世俗の楽しみとは異なる。修行者は自然とともに、花や草木、森とともに生きることを楽しむ。その心は軽やかで、澄み、解き放たれている。自然の風景は詩のように静かであり、修行者をより道徳的で清らかな生き方へと近づける。景色が静かで人里離れていればいるほど、修行者にとっては精神を養い、深く内面へ入っていく助けとなる。孤独で静かな場所へ入ることは、世を逃れることでも、悲観して世を厭うことでもない。むしろ、自分自身をより深く見つめるよい機会を得るためなのである。ある禅師は、自然の静けさを次のように詠んだ。湖や川に恵まれた美しい地を選び、故郷の風情を楽しめば、朝も夕も忘れてしまう。ある時は山の頂に登り、虚空の冷たさに向かって長く一声を放つ。また別の禅師は、世にありながら道を楽しむ境地を説いている。真空を体得し、真の気を自在に用いる。荒れた山、深い森、そここそ隠者が自由に逍遥するところである。反対に、世俗の人々は欲楽を追い求め、それに酔いしれているため、このような楽しみをどうして知り、感じ取ることができようか。同じ「楽しみ」という言葉であっても、一段低いところにある、少しだけ修行を知る人々の楽しみもまた別である。彼らは、放逸で乱れた生活を送る人々のように、刃のない刃物で人を殺すような快楽へ愚かに身を沈めたりはしない。彼らは、自分のために軽やかで清らかな楽しみを作り出す。彼らは世の中から離れてしまうのではない。生活の中に身を置き続け、社会に役立つことも行う。人としての価値を高めるために自分が何をすべきかを知っている。彼らは自分の思いと願いのすべてをもって生きている。真の喜びを得たいと願っている。その喜びは、彼らが内に育んできた道徳によって養われるものである。彼らの人生は、すでに多くの苦しみを経てきた。辛く苦い道を歩いてきた。成功と失敗の争いが髪をすり減らすほど人を疲れさせることを、彼らはよく知り、目の当たりにしてきた。さらに、世の道がどれほど険しく曲がりくねっているかも知っている。彼らの足はすでに風霜に鍛えられている。彼らは、人生に広げられた青い絨毯の上を踏み歩きたいとは思わない。そこには人を殺す毒が満ちているからである。彼らは意識をもって生きる人々である。自分にも他者にも安らぎをもたらす生き方を探している。修行者の楽しみは、凡俗の楽しみを超えている。その楽しみは森の木々であり、山の谷であり、岩のほとりである。では、悟りを得た者の喜びを聞き、味わってみよう。『証道歌』の中で、永嘉玄覚はこう述べている。「深山に入り、静かな庵に住む。険しく奥深いところ、常緑の松の下。野の僧の家で、のびやかに静座を楽しむ。寂かな安居はまことにすがすがしい。」訳せばこうである。深い森に入り、清らかで静かな庵に住む。松の根もと、岩陰の涼しい場所。田舎の僧として、静座の深い喜びと穏やかさに満たされる。静まり返った安らぎの境地は、言葉では尽くせない。まことにその通りである。悟りと解脱を得た人の喜びを、どうして語り尽くすことができようか。その楽しみは世俗の人々の楽しみとはまったく異なる。深く、静かで、内に秘められ、安らかで自在な喜びである。涼しい風を楽しみ、清らかな月を楽しみ、森の木々や竹の群れを楽しむ。聖者たちは静かに、ひそやかに生きているが、同時に自然の無数の音楽の中に溶け込んでいる。鳥の声、風のそよぎ、そのすべてが自然の旋律であり、目覚めた人の心の奥深くへ入っていく力を持っている。それこそが、悟りを得た者たちの法の喜びである。彼らは堅固で雄大な人々であり、衆生を救うために世へ入っていく。出家者であるなら、私たちもまた、山林、花や木々、静寂で幽玄な風景と一つになる喜びの中に、心の静かな楽しみを求めるべきである。それは、超脱した心にふさわしい、詩情あふれる境地である。以上の人々を比べてみると、彼らがどのような楽しみを選んでいようと、それが健全な楽しみであれ堕落した楽しみであれ、いずれもなお世俗的な楽しみである。修行者の楽しみだけが、世俗の束縛を超えるのである。だからこそ、この法句において、釈尊は、山林の自然の中に喜びを見いだす阿羅漢の精神を讃えられたのである。この超脱した姿と対照的に、そのそばには世の人々の欲楽に沈む堕落の姿がある。その代表が、世俗を超えた修行者の目の前で自らの身体をさらした若い女性である。解脱か、堕落か。結局のところ、それは人の心のあり方にかかっているのである。第八章・千の品(Sahassavagga)。

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