詳細解説
この法句で、仏陀は深く、静かで、澄みきった湖を用いて、智慧ある人をたとえておられる。智慧ある人は法を聞いた後、その心もまた清らかで静かになる、というのである。では、少し考えてみよう。なぜ智慧ある人は、法を聞いた後、心が清らかで静かになるのだろうか。この教えの中で、私たちは「智慧ある人々」という言葉に注意しなければならない。忘れてはならないのは、この章が「賢者の章」であるということである。したがって、智慧ある人は、当然ながら、智慧を欠いた普通の人とは異なる。
法を聞く人は非常に多い。たとえば、私たちはこれまで何度法を聞いてきただろうか。法をどのように聞くべきかという問題については、後で考察することにしよう。ここではまず、智慧ある人とはどのような人なのかを理解すべきである。ここで仏陀が説かれる智慧ある人とは、世間一般でいう知識人のことではない。仏法における智慧ある人とは、深い内面的な広がりを持つ人である。その人は、外へ向かうよりも、内を観照することが多い。そのように観照することによって、自分自身の自我をより明確に知ることができる。だからこそ、その人は法を聞いたとき、容易に受け取り、理解することができるのである。
なぜなら、仏陀が説かれる法とは、結局のところ、私たち自身の内にすでに備わっているものを語り直しているにすぎないからである。仏陀は人間の外にあるものを語られるのではない。しかし残念なことに、私たちにはまだ十分な明晰な智慧がないため、仏陀の言葉をすべて深く理解することができない。したがって、もし私たちが法を聞いても、自分自身へと立ち返ってそれを理解しようとしないなら、仏陀の教えを受け取ることは難しい。
智慧ある人の法の聞き方は、私たちが日常的にする聞き方とは違う。普通、私たちは外の音声を追いかけ、それをつかもうとして聞く。自分自身を観照し返す人は少ない。動揺し、乱れ、外へ向かう心で聞いていて、どうして仏陀の言葉を真に見いだすことができようか。これに対して、智慧ある人はそうではない。智慧ある人は目覚めの中で聞く。その心識は、澄んだ青い湖のように静まり澄んでいる。その人は外の境界を聞くよりも、むしろ自分自身を聞くのである。一句を聞けば、その一句において深く観照する。文字や言葉を方便として見なし、それを頼りに観照の実践を行う。このように深く観照するからこそ、その心は澄み静まるのである。
ここで忘れてはならないのは、観照であって、思索して理解しようとすることではない、という点である。思索して理解しようとすることには、意識による探索や詮索が伴う。しかし観照はそうではない。観照とは、太陽の光が万物を照らすようなものである。思いめぐらし、判断し、分別する観念を通さず、明らかに照らすのである。分別とは、ものごとを無数の断片に引き裂くことである。これに対して、観照は正念と相応するだけである。正念は、ものごとを細かく分析し、切り分けたりしない。ものごとをその本来の姿のままにしておく。このように法を聞くことこそ、真に智慧ある人の法の聞き方なのである。そうであるなら、その心が清らかで静かにならないはずがあろうか。
澄みきった湖を見てみればよい。静かで、さざ波ひとつ立っていない。その姿を見れば、静かな心とはどのようなものかを思い描くことができる。では、なぜその湖はそれほど澄み、静かなのだろうか。答えは簡単である。それを揺り動かすものが何もないからである。風もなく、濁りもなく、汚すものもない。要するに、その湖は、それを動揺させるいかなる条件にも左右されていないのである。外の縁も内の縁も入り込まないため、水そのものの澄んだ本質を保っている。ただそれだけのことである。
その澄みきった湖を見れば、なぜ仏陀が、智慧ある人は法を聞いた後、その心もまた清らかで静かになる、とたとえられたのかが理解できる。もし法を聞いた後、私たちの心が野山をさまよい、あちらこちらを訪ね歩くように勝手に走り回るなら、私たちの心は清らかで静かであると言えるだろうか。仏陀の法は、私たちに何のために説かれているのか。私たちの心を清らかにし、安らかにするためではないのか。では、清らかさと安らぎを得るには、私たちは何をすべきなのか。
もし私たちが、自分の心という湖の中を、手でかき回し続けるなら、どうしてそれが静かでいられようか。なぜ仏陀が教えられたように静かにしておかず、私たちはかき回すことばかり好むのか。一方では絶えずかき回しておきながら、他方では澄んだ湖のように静かでありたいと願う。これは自分自身と矛盾しているのではないか。なぜ私たちはそのように自分と矛盾するのだろうか。何が私たちを、自分自身と矛盾させているのだろうか。仏陀は一つの道を示しているのに、私たちは別の道を行っているのではないか。私たちは誠実に自分へ問い、自分自身に答えなければならない。誠実に答えることができて初めて、その矛盾の理由を見いだすことができる。
仏教は、ありのままの道である。仏教は、私たちを自分自身の根源へと帰らせる道である。仏教は、私たちが幻想の中をさまようことを望まない。幻想があるかぎり、私たちは二辺に執着する妄想の深い穴へ落ちてしまうからである。私たちは、智慧ある人の法の聞き方を学ぶべきである。長いあいだ、私たちは妄想の意識の呼び声に従って聞いてきた。そのような聞き方は、法達禅師が『法華経』を三千回読誦した場合と、何が違うだろうか。彼は『法華経』に転じられていたのである。経を読誦していながら、彼は経を転ずることができなかった。曹渓に至り、六祖に会い、六祖がその病の核心を的確に示したことによって、彼はようやく経に転じられることから離れたのである。
今の私たちの法を聞く心の状態も、同じである。私たちはまだ、智慧ある人の法の聞き方を実践することができていない。私たちの妄執の病は、あまりにも重い。私たちは、法達禅師のように手放す勇気をまだ持っていない。そして、業が重いからだという理由を持ち出す。すると、それだけで心を決めてしまい、深く探求しようとしなくなる。ただ一言、「業障が深く厚い」と言えば、すべてが終わったようになってしまう。一生を流転するのもまた、その「業障が深く厚い」という言葉に従ってしまうのである。
もし自分の業障が深く厚いと知っているなら、なぜそれをすり減らすために努力して立ち上がらないのか。「すり減らす」と言うのは、ただ一つの表現にすぎない。実のところ、業障は本来空である。そうであるなら、何をすり減らし、何を磨く必要があろうか。
この法句で、仏陀は私たちに、智慧ある人の法の聞き方を身につけるよう努めよ、と教えておられる。智慧ある人の法の聞き方とは、外の音声という対象に引きずられない聞き方である。その人には、揺るぎない自主的な正念がある。ここで仏陀は、私たちに智慧ある人となる修行をしてほしいと望んでおられる。法の聞き方を知らなければならない。自分自身のところへ立ち返り、そこで法を聞きなさい。なぜなら、自分の心こそが大いなる法話だからである。そのように聞いて初めて、私たちの心は真に清らかで静かになるのである。
禅AIアシスタント
オンライン