詳細解説
この法句を説明する前に、まず友を結ぶことについて少し考えてみたいと思います。『賢人経』には、友を結ぶ四つのあり方が説かれています。第一は、花のような交友。第二は、秤のような交友。第三は、大地のような交友。第四は、山のような交友です。
第一に、花のような交友とは何でしょうか。花というものは、朝に咲いて夕べにはしぼむものです。咲いたばかりの花がみずみずしく美しいときには、誰もがそれを見て喜び、感嘆し、称賛します。けれども、花がしおれ、色あせ、散ってしまうと、誰も目を向けようとはしません。同じ一輪の花であっても、昨日は人々に愛され尊ばれていたのに、今日になると、同じ花が見向きもされず、軽んじられてしまうのです。仏陀はこの花をもって、友人との交わりをたとえられました。私たちが富み栄えているとき、すなわち花がまだ瑞々しく美しいときのような状態にあるときには、友人は多く、訪ねて来る人も多く、宴席では互いに杯を交わし、笑い合い、楽しく親しく付き合います。しかし、ひとたび私たちが落ちぶれ、貧しく困窮するようになると、しおれた花のように、友人たちは皆遠ざかり、顔を見せようとする者さえいなくなります。まさに世間でよく言われるように、順境のときには人は寄って来るが、苦難のときには誰も残らない、ということです。また、金銭があるうちは人が付き従い、金銭がなくなれば誰も寄りつかない、とも言われます。世の人情とはそのようなものです。世間の情とは、実に冷たくはかないものなのです。
第二に、秤のような交友とは何でしょうか。秤とは、左右の重さが等しくなってはじめて釣り合うものです。一方が重く、もう一方が軽ければ、当然、秤は平衡を失います。仏陀は、友との交わりもこれと同じであると説かれました。友人同士の付き合いにおいては、双方が互いに釣り合いを保たなければなりません。世間でも、贈り物を受けたなら、それにふさわしく返礼するものだ、と言われます。また、行き来があってこそ互いの心は満たされる、とも言います。これは友情を長く保つための原則です。もし一方だけが与え続け、もう一方はまったく応じず、姿も気配も見せないなら、その秤はすでに傾いています。そのような交友は、遅かれ早かれ崩れてしまうでしょう。友情を長く保ちたいなら、この原則に従うほかありません。ああ、一方だけがいつまでも尽くし、もう一方からは何の応答もないなら、そのような友情はもはや続きません。秤が大きく傾いてしまえば、どうしてなお友として付き合うことができるでしょうか。
第三に、大地のような交友とは何でしょうか。大地は万物を生み育てるところであり、あらゆるものが安らかによりどころとする場です。この大地をもって、私たちが交わるべき善き友をたとえます。善き友と交わるとき、私たちの心は安らかで明るくなります。善き友は、まさに善知識であり、信頼して頼るに値する人です。大地があらゆる命のよりどころであるように、善き友は、私たちが苦難に遭ったとき、進んで助けてくれる人です。その人は苦しみも喜びも分かち合ってくれる人です。その人は、誰よりも私たちを理解し、共感してくれる人です。まさにその人こそ、私たちが信頼し、心の内を託すに値する人です。私たちの心が乱れているとき、その人は私たちを慰めてくれます。その人は、私たちが困難に遭ったときに背を向け、知らぬふりをする悪友とは違います。ですから、善き友こそ私たちが交わるべき友なのです。親しく交わり、朝夕に支え合い、助け合い、敬い合うべきです。
私たちが覚えておくべきことは、どれほど親しい友であっても、互いに敬意を保たなければならないということです。互いに敬い合ってこそ、善き友情は長く続きます。親しいということは、相手を利用してよいという意味ではありません。もし二人のうちどちらかが相手を利用しようとするなら、その友情には必ずひびが入り、傷がつきます。たとえ相手がどれほど善い友であっても、その友情は長くは続きません。大地は堅固ではありますが、深く掘り崩せば崩落することもあります。それと同じように、善き友情を長く保ちたいなら、相手を利用しようとする心を持ってはならないのです。
第四に、山のような交友とは何でしょうか。山は鳥や獣が帰って巣を作るのに最も安全な場所です。そこには人の往来が少ないからです。この山をもって、徳ある人をたとえます。十分な徳を備えた人こそ、私たちが身を寄せ、学ぶにふさわしい人です。鳥が山へ帰るとき、大きな安心を感じるように、その場所では捕らえられたり殺されたりする心配におびえる必要がありません。実に、真に道徳を備えた人のそばにいるとき、私たちは多くの利益と安らぎを得ます。その人の一言の教えは、私たちが実践していくための羅針盤のようなものです。徳ある人とは、智慧ある人でもあります。その人に長く近づくほど、私たちの徳は深まり、智慧は開かれていきます。なぜなら、私たちはその人から多くを学ぶからです。まさに、善い環境に近づけば明るくなり、悪い環境に近づけば暗く染まる、という言葉の通りです。
以上の四種類の人のうち、後の二種類の人に、仏陀は私たちが親しく近づくべきであると勧められました。彼らに近づけば近づくほど、修行においても、人との交わりにおいても、私たちは多くの利益を得ることができます。この法句において、仏陀は友を選ぶ方法を教えておられます。この世に友を持たない人はいません。しかし友にもさまざまな種類があります。大きく分ければ、結局、善い人と悪い人、すなわち善友と悪友の二種類に帰着します。
ここで仏陀は、私たちは自分より優れた人と友になるべきであると教えられます。なぜ仏陀は、自分より優れた人と友になるよう勧められるのでしょうか。これはそれほど理解しにくいことではありません。自分より優れた人、たとえば徳、性格、知識などにおいて自分より優れている人には、親しく近づき、そこから学ぶべきです。その人に近づくことによって、私たちは日々、善い性質と知識を増していくことができます。潙山禅師は次のように教えています。遠くへ行くときには善き友に寄り添い、常に目と耳を正しく導いてもらいなさい。どこにいても友を選び、いつもまだ聞いたことのない教えを聞きなさい。それゆえ、生んでくれるのは父母であるが、私たちを成長させるのは善き友である、と言われる。善き友のそばにいることは、朝露の中を歩くようなものだ。衣はすぐには濡れないが、時とともに少しずつしみ込んでいく。反対に、悪人に近づけば悪い見解が増し、朝夕に悪を行い、目前にその報いを受け、死後には沈み堕ちる。一度人身を失えば、万劫にも再び得がたい。
この言葉、善き友に近づくことは朝露の中を歩くようなもので、衣はすぐには濡れないが、時とともに少しずつしみ込んでいく、というたとえは実にその通りです。早朝、外に出たばかりのときには、初めは濡れたとは感じません。しかし長く歩いていると、やがて冷たく湿っていることを感じます。友に近づくことも同じです。善良で徳のある人に近づけば、多かれ少なかれ、私たちはその人の善い性質に影響されます。逆に、悪い人に近づいても同じことが起こります。心は無常であり、非常に影響を受けやすいものだからです。
善い人、広い知識を持つ人と共に暮らすなら、私たちはその人から多くを学びます。とりわけ、その人の振る舞いから学ぶのです。私たちが理解できないことを尋ねれば、その人は喜んで教えてくれます。だからこそ、師から学ぶだけでなく、友から学ぶことも大切だと言われるのです。その人たちは利己的な人ではありません。寛容で広い心を持った人です。徳ある人であるため、その行動も言葉も、道徳的な本質から自然にあふれ出ます。だから、その人のそばにいると、私たちは明るく涼やかな心になります。その人たちは気分が変わりやすく、人を困らせるような人ではありません。謙虚で、常に人に対して穏やかで丁寧です。その言葉は優しく柔らかです。自我を誇示して大げさに語ることもありません。これほどの善い性質があるなら、私たちが敬服し、親しく交わり、学ぼうとするには十分です。ですから、仏陀はこのような人と親しむべきだと教えられたのです。仏陀は人間の心理を深く知っておられました。善に近づけば善に染まり、悪に近づけば悪に染まるという古人の言葉は、経験に満ちた言葉です。古人もまた、人間の心が染まりやすいことをよく理解していたのです。私たちは人類の智慧、特に先人の智慧を学ばなければなりません。
次に、仏陀は、私たちは自分と同等の人と友になるべきであると説かれます。なぜでしょうか。自分と同等の人とは、私たちを理解しやすい人という意味です。その人は、私たちと同じ程度の理解力を持っています。共に生活し、親しく交わるうえで、互いに理解し合うことは非常に重要です。理解がなければ、友情は傷つきやすくなります。理解には多くの面があります。教養、知識、性格、徳などです。共に生きるうえで、理解し、愛し、共感し合うことほど大切なものはありません。こちらが話せば相手は理解し、相手が話せばこちらも受けとめる。言葉にも行動にも共感がある。同じ程度の理解を持つ者同士であれば、実に暮らしやすく、息苦しさがありません。
反対に、理解力があまりにも乏しく、頑固で、強情で、教えにくい人と交われば、ただこちらの苛立ちを増すだけです。そのような人と共に暮らせば、心の煩悩はますます増えます。私たちは彼らから何も学べないばかりか、かえって日々暗く愚かになっていきます。なぜでしょうか。彼らが何かをすると、こちらは不快に感じ、忍耐できず、つい同じ土俵で争ってしまうからです。そうなれば、私たちは自分を彼らと同じ低いところへ下げてしまったのではないでしょうか。ここで言っているのは、友として親しく交わる方法であって、相手を教化することではありません。この点を混同してはなりません。私たちが今学んでいる章の題が『愚者の章』、すなわち愚かな者についての章であることを忘れてはなりません。
もし智慧ある人であるなら、自分よりはるかに理解の劣る人と親しく交わるべきではありません。より明確に言えば、ここでいうのは、自分よりはるかに愚かな人のことです。そのような人と親しく付き合い続ければ、長い年月のうちに多くの不快で厄介なことが起こります。最もよいのは、初めから距離を置くことです。私たちは、尊敬しつつも距離を保つという教えを学び、実践すべきです。つまり、私たちはその人をなお尊重します。軽蔑したり、見下したりする態度を示してはなりません。その人を慈しむことはできます。しかし親友として結びつくことはできません。そして、その人からは距離を置くべきです。なぜなら、その人の理解の程度があまりにも低いため、互いに理解し合い、道を共に歩む友となることが難しいからです。
もし親しく交わる友が得られないなら、あまりに愚かで無知な人を友に持つよりは、友がいないほうがよいのです。だからこそ、仏陀は続けて、愚かな者と友になるよりは、固く志を立てて独りでいるほうがよい、と説かれたのです。このことは、静かに心を落ち着けて考えてみれば、まことにその通りであると分かります。仏陀はしばしば、愚かな者に法を説くのは、耳の聞こえない者に語るようなものだ、と教えられました。耳の聞こえない人には、こちらが何を言っても聞こえません。愚かな者もそれと同じです。こちらが何を言っても理解しません。それならば、耳の聞こえない者とどう違うでしょうか。したがって、そのような人に近づけば近づくほど、自分に多くの苛立ちを作り出すだけなのです。
世間には、夫婦の間で絶えず不和や言い争いが起こる場合が多くあります。その多くは、理解や教養の差があまりにも大きいことに由来します。たとえば夫は高等な教育を受けているのに、妻は基礎的な学びさえ十分に終えていないとしましょう。そのような場合、どうして共に暮らしていけるでしょうか。そのため、独りでいるほうがまだよい、と言う人も多いのです。共に暮らすことがどうして容易でしょうか。一方があることを言っても、もう一方はまったく別の意味に受け取ってしまいます。理解の水準が互いに合わなければ、共感することは非常に難しいのです。だから、長く共に暮らしたいなら、学びや知識の程度はある程度釣り合っていなければなりません。そうであれば、どちらも相手を見下したり軽んじたりしません。これは、ほとんど永遠の原則とも言えるものです。
この法句を通して、仏陀は私たちに友を選ぶことについての教えを与えておられます。人は友なしに生きることはできません。どれほど気難しい人であっても、多少なりとも一人か二人の友はいるものです。まさか一生を閉ざして孤独に過ごすわけにはいきません。世間のことわざにも、水が澄みすぎれば魚は棲まず、人が細かく責めすぎれば友はできない、とあります。まさにその通りです。世間の学びにおいても、仏道の学びにおいても、あまりに細かく詮索し、計算し、気難しい人は、結局、独りで暮らすしかありません。誰が自分は常に健康でいられると保証できるでしょうか。出家者で家族を持たない人であれば、なおさら同じ道を歩む法友を必要とします。法友は同じ理想を持って修行する仲間だからです。病気や弱ったときに互いに助け合うためにも、法友は非常に大切です。
遠くの親族より近くの隣人、という言葉があります。近くの隣人は血のつながりこそありませんが、何かあったとき、遠くの親族が来るのを待っていたら、助けが間に合わないこともあります。ですから、私たちのそばで暮らしている友を大切にし、互いに敬い、助け合うべきです。もし友が何か過ちを犯し、私たちが不快に感じたなら、上手に、穏やかに説明する方法を見つけるべきです。そして話し終えたなら、明るい心で手放すべきです。手放すためには、理解と慈しみが必要です。この二つの重要な要素がなければ、友情を長く保つことは望めません。友として付き合いながら、その友を理解できないなら、親しく交わらないほうがよいのです。
最も避けるべきことは、友の事情を他人に持ち出して、その友を悪く言いふらすことです。これは非常に卑しい行為です。道徳も良心も、そのような振る舞いを許しません。すでに述べたように、友を選ぶことは重要なことです。ですから、私たちは友を選んで交わる必要があります。しかし、いったん友として選んだなら、相手を出し抜いたり、つまらない策略を用いて利用したり、害したりしてはなりません。特に友情にひびが入ったとき、友を悪く言うことは最も戒めるべきことです。好きなときには何でもよく見え、嫌いになれば何でも悪く見える、というようであってはなりません。また、愛しているときには相手に関わるものすべてを愛し、嫌うようになると相手の周囲まで嫌う、というようであってもなりません。さらに悪いのは、巧みに言葉をねじ曲げて、友を背後から刺すことです。そのような行為は、まことに恥知らずなものです。そのような人には、良心も道徳も少しもありません。良心と道徳がないなら、どうして高い悟りや深い修証を語ることができるでしょうか。このような人々からは、火の穴や毒蛇の口を避ける以上に、遠く離れるべきなのです。
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