他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。
他人の過ちをさがしてはならない。他人がしたこと、しなかったことを見てはならない。ただ、自分自身のしたこと、しなかったことだけを見つめなさい。

詳細解説

仏は教えられる。修行者は他人の過ちを覗き見てはいけない。彼らが何をしたか、あるいは何をしなかったかを見るのではなく、ただ自分自身の行いを振り返るべきである。この教えは、人間に深く根付いた病、すなわち他人の過ちを見て批判したり、賞賛したりする癖に向けられている。ほとんどの人は自分の過ちを見ようとせず、自宅は散らかっていても気にせず、他人の家を掃くことを好む。だから「自分の足元にはまだ多くの迷いがあるのに、他人の足を灯火で追いかける」という言葉がある。葉をめくって虫を探し、毛を掻き分けて傷を探す、それが人間の悪い習性である。誰もが国際警察になりたがる。昼も夜も次々と人を責めるが、自分自身を省みることはない。修行者にとって他人を批判する態度は最も避けるべきものである。真の修行者であれば、自分の過ちを見つめ、それを改めることに専念するべきである。互いに善行を助け、日々の修行が進歩するために仏は互いに過ちを指摘することを許される。しかし、この指摘は自我を満足させて他人を辱めるものであってはならない。このような状況が決して生じないようにしなければならない。

他人の過ちを見て自分の過ちを見ないことについて、『中華諸禅徳行状』第一巻、釈清如編、67頁に、六祖と神会の話がある。神会が14歳のとき、まだ小沙弥であったある日、玉泉寺に六祖を訪ねた。到着すると、祖は尋ねた。「遠方から学びに来た君よ、本質(本)を持ってきたか?もし本質を持っているなら、主を知るべきだ。言ってみよ。」
神会は答えた。「執着しないことを本とし、見たことが主です。」
祖は言われた。「小沙弥よ、そのような言葉を使うべきではない。」
神会は尋ねた。「和尚が坐禅するとき、見ているのか、見ていないのか?」
祖は杖で三打し、尋ねた。「我が打たれたとき、痛いか、痛くないか?」
神会は答えた。「痛くもあり、痛くもなし。」
「我が見ることも見えず。」
「見えるとも見えぬともとはどういうことか?」
「我が心においては、常に自分の過ちを見、他人の行為の善悪を見ない。これが見えるとも見えぬともということである。」
「痛くもあり、痛くもなしとはどういう意味か?痛くなければ草木と同じであり、痛ければ凡夫と同じで、怒りの心が起こる。」
「見えるとも見えぬとも」と「痛くもあり痛くもなし」は生滅の二つである。自らの本性を見ずして、他人と戯れるとは何事か。神会は礼拝し、懺悔した。祖は言われた。「心迷いて見えざるなら、善知識に道を尋ねよ。心悟りて自ら性を見れば、法に従い修行せよ。迷いを見ずに我に尋ねることなかれ。」
神会は百余礼を尽くし、懺悔を願った。ここから神会は祖に仕え、常に離れなかった。神会は過ちに気づかず祖と戯れたが、14歳にしてすでに優れた洞察力を持っていた。このことは、彼が多くの生において善根を深く積んでいたことを証明しており、早く仏法に遇い、鋭い慧根を得たことを示している。修行者は常に自己を顧みることこそが真の修行者である。故に六祖は言われる。「真に道を修する者は、世の過ちを見ず、もし他人の過ちを見るなら、自らの過ちがすでに至る」。

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