前にも、後にも、中間にも、一物をも所有せず、無一物で、何ものをも執著して取りおさえることの無い人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
過去・現在・未来のいかなるものにも執着せず、何も所有せず、何にもすがらない者――そのような人を、私は真のバラモンと呼ぶ。

詳細解説

この偈は、竹林精舎で、比丘尼ダンマディンナーに関連して説かれた。出家前のダンマディンナーには、ヴィサーカという夫がいた。彼は敬虔な在家信者で、仏陀の教えを聞いて不還果を得た。ある日、彼の態度は変わった。妻への執着を示さず、黙って食事をし、その後、家の財産はすべてあなたが管理しなさい、私はもう世俗のことに関わらない、と告げた。ダンマディンナーは、それなら私はあなたが吐き捨てたものを拾い集めるようなことはしません、と答えた。つまり彼女もまた財産に執着していなかったのである。彼女は比丘尼として出家する許しを求め、ヴィサーカは同意した。彼女は精進してまもなく阿羅漢果を得、後にヴィサーカをさらに解脱へ導いた。この夫婦の行いは世に稀である。財産を手放せる在家者と、財物を唾のように見なす女性の姿には、深い内的自由が表れている。修行の成就は外見だけでは判断できない。外から見ると普通に見えても、内側では一念が起こるたびに気づき、煩悩の芽をその場で見抜く人がいる。真の修行かどうかは、まず自分自身が知る。この偈は、過去・未来・現在の法に対して、その人には一物もないと説く。これは、三世に心を求めても得られないという般若の教えを思わせる。つかめる心は妄心であり、縁と対象によって生じるもので、本性は空である。空とは虚無ではなく、固定した自性がなく、煩悩に実体がないということを意味する。この空性を悟ることが道に達することである。何にも執着しないとは、外の物を捨てるだけでなく、心の中の煩悩のもつれを放すことである。それを放したとき、本来の心は安らかで自在となり、解脱する。

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