怒ることなく、つつしみあり、戒律を奉じ、欲を増すことなく、身をととのえ、最後の身体に達した人、──かれをわれは<バラモン>とよぶ。
怒りを離れ、敬虔で、戒清浄で、渇愛なく、自己を調え、最後の身体を負う者――彼を私はバラモンと呼ぶ。

詳細解説

このダンマパダの偈は、竹園精舎にて、舍利弗尊者に関連して仏陀が説かれたものである。故事によれば、仏陀が竹園精舎におられた時、舍利弗尊者は五百人の比丘と共に、自分の母の家へ托鉢に行った。母は全員を家に招き入れたが、食事を供しながら尊者を激しく罵り、「家財を捨てた乞食」と非難し、「物乞いになるとは恥ずべきことだ」と言った。さらに他の比丘たちも罵った。舍利弗尊者は黙して受け、精舎に戻った。羅睺羅が仏陀に食事を捧げた時、仏陀が事情を尋ね、羅睺羅は全てを話した。仏陀が「その時、あなたの師はどのような態度だったか」と問うと、羅睺羅は「師(舍利弗)は黙して何も言いませんでした」と答えた。比丘たちはこれを聞き、舍利弗尊者の高貴な忍辱の行を称賛した。仏陀は彼らに言われた。「比丘たちよ、あらゆる邪悪な欲望を完全に除き去った者は、もはや怒りを持たない」(故事の要約終わり)。怒りはほとんど誰にでも多少はあるものであり、それは私たちの心に長く潜む古い種子だからである。修行の深さによって、その強さは異なる。ほとんど修行しない者では、怒りは計り知れないほど激しく噴出する。修行する者は、逆境的状況に直面した時、深い内観によって怒りを比較的軽く遅く現れるように制御できる。よく修行した者は煩悩が大いに減る。さらに深い修行者では、粗い煩悩は消えるが、微細な煩悩は残る。阿羅漢たちは、見惑・思惑の煩悩を完全に断ち切っている。典型が舍利弗尊者である。母から激しく罵られても、尊者は安らかに黙し、忿りの一言も発しなかった。これは、貪・瞋・痴という根本煩悩がもうないからである。円熟した修行の力によってである。従って、煩悩を断つ修行は、強い決意があれば誰でもできる。修行の道では、人々の優劣は、煩悩をどれだけ滅したかの違いに過ぎない。根本が断たれれば、当然、枝葉もなくなる。もし内なる修行の力が弱ければ、枝葉から修行すべきである。すなわち、身業と言葉をよく守ることである。大きな木の根を抜く力がなければ、枝を折り葉を摘んで徐々にすれば、やがて木は枯れる。粗い部分から徐々に微細な部分へと進むのである。逆に、修行の力が強ければ、根本すなわち心の微細な部分に直接働きかけることができる。念頭が起きた瞬間にそれを明確に認識する。認識するだけでそれは消え去る。なぜなら、その本質は虚偽で実体がないからである。そのためには、常に正念を持たねばならない。この根本における修行こそ真に重要である。業を造る念頭がもう起きなければ、生死の流れはここで終止する。舍利弗尊者が母からひどく責められても、心が泰然として清涼であったように、尊者の心にはもはや汚れた煩悩がなかったからである。尊者は常に寂静なる涅槃に住していた。だからこそ、尊者は多くの自由と幸福を持っている。そうなるためには、瞬時瞬時の修行に努力し、常に自心を観照しなければならない。川岸に座って流れる川を眺め、その一筋一筋の道筋をはっきり知る人のように。そうして初めて、歩み、微笑み、呼吸の中に平安と幸福を得ることができるのである。

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