この世の福楽も罪悪も捨て去って、清らかな行ないを修め、よく思慮して世に処しているならば、かれこそ<托鉢僧>と呼ばれる。
善も悪も超え、清らかな修行に専念し、正しい理解をもってこの世を歩む者こそ、まことの比丘である。

詳細解説

この二つの偈は、祇園精舎において、あるバラモンに関して仏陀が説かれたものである。あるとき、一人のバラモンが家庭生活を捨て、別の教えに従う修行者となった。托鉢に出かけたとき、彼は心の中でこう考えた。「沙門ゴータマは、弟子たちが托鉢に出るとき、彼らを『比丘』と呼んでいる。ならば、私のことも比丘と呼ぶべきだ。」そこで彼は仏陀のもとへ行き、こう言った。「沙門ゴータマよ、私もまた食を乞うて身を養っています。どうか私を比丘と呼んでください。」仏陀は答えられた。「バラモンよ、私は、ただ食を乞うというだけで人を比丘とは呼ばない。たとえ外面的には比丘に似たあらゆる振る舞いをしていたとしても、それだけで比丘になるわけではない。諸蘊をありのままに見て知り、その理解にふさわしく修行する者こそ、真に比丘なのである。」この因縁によって、仏陀はこの偈を説かれた。修行者がただ外面的な形ばかりを重んじるなら、それは真の修行者の意味にかなっていない。鉢を持って托鉢し、生活を支えるからといって、それだけで比丘と呼ぶのは、まことに愚かで滑稽なことである。もしそうであるなら、貧しく病み、あるいは身体に不自由があって食を乞う人々も、すべて比丘と呼ばなければならないのだろうか。このバラモンは、明らかに「比丘」という言葉の意味を理解していなかった。比丘の原語はインドの言葉で bhikkhu であり、漢訳仏教では音写して比丘とされた。比丘には三つの意味がある。すなわち、乞士、怖魔、破悪である。乞士には二つの意味がある。第一に、上には仏の教法を請い求め、法身と智慧のいのちを養い育てるという意味がある。第二に、下には施主から食物を受け、この四大から成る幻のような肉身を養うという意味がある。怖魔とは、魔の軍勢を畏れさせることである。魔とは、仏果へと進む修行の道において障害となり、妨げとなる一切のものを意味する。修行者は、これらの障害を乗り越え、打ち破って、すみやかに本願を成就しなければならない。破悪とは、修行者の心の中にあるあらゆる煩悩や悪しきものを滅することである。このように、比丘とは、清らかな梵行を生き、自由で、いかなるものにも縛られず、清浄な本性を汚すものに染まらない人でなければならない。目覚めと気づきの中で、質素な生活を送る者である。そうであってこそ、比丘の名にふさわしい。仏陀はきわめて明確に示された。比丘とは、諸蘊を「ありのままに見て知る」者であり、またその見知ったところに真にふさわしく修行する者なのである。

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