そのように善いことをしてこの世からあの世に行った人を善業が迎え受ける。──親族が愛する人が帰って来たのを迎え受けるように。
同様に、善き行いをした者がこの世から次の世へ行くとき、その善業が親族が旅人を迎えるかのように、彼を温かく迎え入れるのである。

詳細解説

この二つの法句は、バーラーナシー(瓦拉納西)の鹿野苑で説かれ、ナンディヤにまつわる話です。ナンディヤはバーラーナシーの非常に篤い仏教徒の家庭に生まれた青年でした。穏やかで多くの良い徳性を備えていたため、家族は彼に僧侶たちの世話役をさせました。成人したとき、両親は彼に向かいの家のレーヴァティーという娘と結婚させようと決めました。しかし彼は、彼女に仏法への信仰心がなかったので承知しませんでした。それを見た母親はレーヴァティーに彼の心を掴む方法を教え、結局ナンディヤは承知して結婚式を挙げました。それからレーヴァティーは孝行で、仏陀や僧団に供養する篤い信仰心を持つ娘に変わりました。一緒に暮らすうちに、二人はかわいい二人の男の子をもうけ、非常に幸せに暮らしました。やがて両親が相次いで亡くなり、裕福な遺産を二人に残しました。二人は常に仏陀や聖僧団に心から供養し、さらにナンディヤは貧しい人々に食物を施し、仏陀と僧団が止まれる精舎も建てました。その供養の功徳により、ナンディヤは非常に大きな福徳を得ました。すなわち、三十三天(忉利天)にはナンディヤのために設けられた多くの豪華な宮殿があったのです。目犍連尊者がこの天界を遊行した際にそれを目の当たりにし、帰って仏陀に申し上げました。仏陀は言われました、それらの楼閣宮殿は、ナンディヤがこの身を捨ててそこに生まれるときに彼を迎えるであろうと。天の神々は、故郷を離れていた愛する人が今故郷に帰ってくるのを喜び祝うように、真心を込めて暖かく迎えるであろうと。(以上、話の要約)福も罪も、すべて私たちが身・口・意の三業によって作り出すものです。現世で多くの福徳を積めば、死後に良い安楽な果報を受けるだけでなく、現世でも良い果報を収めます。これが因果業報の法則で、間違いはありません。果報が勝れているかどうかは、私たちが積んだ福徳の因の多寡によります。そして福を造るとき、重要なのは心のあり方です。供養や布施、貧しい人々への援助など、すべては真心があるかどうかによります。福の多寡は心にあって、供養や布施する物の多寡にあるのではありません。もし不敬で傲慢、人を軽んじる心で福を造れば、その果報は大きくないでしょう。そればかりか、かえって罪になることさえあります。だから福を造るときは、心を慎まねばなりません。敬い愛する心を持たねばなりません。そうしてこそ、福を造ることが意味を持ち、大きな利益を得られます。逆ならば、ただ重い罪を負うだけです!上記の話で、ナンディヤが大きな福報を得たのは、仏陀や僧団に対して全て敬いの心で供養し布施したからです。対照的にレーヴァティーにはその敬いの心がなく、結局は地獄に堕ちるという悲惨な結果を招きました(『ヴィマーナ・ヴァットゥ』の注釈によれば、ナンディヤが天に生まれた後、レーヴァティーは僧団への供養をやめ、比丘たちを罵り呪ったため、生きながら地獄に落ちたとあります)。ある人は福を造って人を助けた際、功績を言い立てたり、軽侮の心を抱いたりします。あれこれと非難し罵り、自分には大した功績があると思い込んでいます。しかし、そのような傲慢で高慢ちんな態度は、実に大きな災いをもたらすのです!現世では人から敬われず、未来には暗く苦しい道に堕ちるでしょう。そのような因があって、どうして良い果報が得られましょうか?!自分の影を見ればよく分かります。自分が座れば影も座り、自分が歩けば影も歩く…因果応報は影が形に従うように、少しも狂いません。仏教徒は、因果を軽んじて苦しみを招くことのないよう、細心の注意を払うべきです。その時になって後悔し嘆いても、すでに遅すぎます!誰もあなたを救い、束縛を解いてはくれません!自ら智慧の灯を掲げて歩きなさい。しかし正法をもって灯を掲げなければなりません。第十七章 憤怒品

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