唯一なることわりを逸脱し、偽りを語り、彼岸の世界を無視している人は、どんな悪でもなさないものは無い。
ただ一つの真実の法を犯し、嘘を語り、来世を無視する者にとって、成し得ない悪事など存在しない。

詳細解説

この物語は、仏陀が祇園精舎に滞在しておられた時に起こったもので、チンチャー・マーナヴィカーに関わる話である。教えを広める歩みの中で、仏陀は数多くの障害や迫害に遭われた。そうした障害の多くは、異教の修行者たちが企てた害意によるものであった。そのうちの一つが、彼らがチンチャー・マーナヴィカーをそそのかして仏陀を辱めようとした事件である。彼らの目的は、仏陀の名声と信頼を失わせ、それによって自分たちが利益を得ることであった。なぜなら、仏陀の徳行と教化の力は日に日に広まり、そのため諸外道の宗派はしだいに利益と信徒を失っていったからである。その嫉妬とねたみから、彼らは仏陀を害しようとして、さまざまな狡猾な策略をめぐらした。

師弟たちは仏陀を害する方法を相談したが、最も効果が大きく、しかもよい策をまだ見つけられずにいた。彼らの女性信者の中に、チンチャー・マーナヴィカーという女性がいた。彼女は若く、しかもたいへん美しい容姿を備えていた。彼女は仏陀を害する使命を引き受けた。そして一つの策略を思いついた。毎日たいそう美しく着飾り、仏陀の説法を聞くふりをして精舎に出入りするのである。その計画を実行するため、彼女は仏陀のおられる精舎の近くに住むようになった。彼女はしばらくの間、仏陀の説法を聞きに通い続けた。その後、腹に物を入れて、日ごとに膨らみが大きくなるように見せ、まるで妊娠しているかのように装った。

ある日、仏陀が大衆の前で説法をしておられる時、彼女は仏陀の前に立ち、突然大声で怒鳴り始め、侮辱と誹謗の言葉を浴びせた。彼女は、自分の腹の子の父は仏陀であると言いがかりをつけたのである。仏陀は事の次第をすべて知っておられたので、安らかに座ったまま沈黙しておられた。聴衆はみな驚いて仏陀を見つめ、それから彼女の顔をじっと見た。彼らは、仏陀を罵倒する彼女の言葉に対して、怒りと不快の思いをあらわにしていた。

その時、帝釈天が事の真相を見抜き、一匹の鼠に姿を変えて彼女の腹の中へ入り、腹にくくりつけられていた紐をかみ切った。紐が切れると、腹の中に仕込んでいた物がその場に落ち、それが彼女の足の指を傷つけた。こうして、仏陀に濡れ衣を着せようとした陰謀は、すべての人の目の前で明らかになった。人々は怒り、口々に彼女を非難して騒ぎ立て、ついには彼女を精舎から追い出した。仏陀を害しようとする悪心のために、彼女はその報いとして阿鼻地獄に堕ちることになった。

このことをきっかけに、仏陀は、チンチャー・マーナヴィカーが仏陀を害したのは今回が初めてではなく、過去世においても同じように仏陀を害したことがあったと語られた。そして、この法句を説かれたのである。

以上に概略を述べた物語は、私たちに因果についての具体的な教訓を与えている。他人を害すれば、その害は結局自分に戻ってくる。世の中では、人は嫉妬の心から、自分より優れた者を認めたがらず、あらゆる策略、手段、狡猾な方法を用いて、どうしても相手を陥れようとする。公然と害する場合もあれば、陰で密かに害する場合もある。それは、その人の悪意の強さによって異なる。もし悪心が激しく燃え上がれば、その人は善悪も、良心も、道徳も顧みなくなる。どうしても相手を辱めようと決意してしまうのである。そのような人は、良心も理性も完全に失い、自分の悪しき自尊心を満たすことだけを望む。自分の良心に耳を傾けることもしない。彼らは、利己的な我執と欲望の奴隷として生きているのである。

これらの外道たちは仏陀を憎んだ。なぜなら、仏陀があらゆる面で彼らに勝っていたからである。人々は彼らを嫌うようになった。彼らの本当の姿を見抜いたからである。その姿とは、外側だけは道徳の衣をまとっているが、実際には道徳のない姿であった。彼らは利益と供養を求める者たちであった。そのため、人々はますます仏陀のもとに向かい、仏陀に従う者は日増しに多くなっていった。こうして彼らの怒りと復讐心は、ますます強まっていった。しかし、怒り、妬めば妬むほど、彼らの良心はそれだけ深く苦しんだのである。

彼らの陰謀は暴露された。彼らは仏陀を害することができなかったばかりか、かえって大きな災いを自ら招き、人々からますます憎まれ、遠ざけられる結果となった。これによって分かるように、悪心をもって善良な人を害しようとする者は、たいまつを手にして自分自身を焼くようなものである。汚れた血を口に含んで人に吹きかけようとすれば、その前に自分の口が血で満たされてしまう。人を害しようとする邪悪な心は、相手を害する前に、すでに自分自身に多くの苦しみを招いているのである。

この教訓は、嫉妬深く邪悪な心を抱き、人を害そうとする者への警鐘である。人が自分より優れているなら、本来はその人から学び、自分もその境地に近づけるよう努めるべきである。たとえ菩薩のように他者の善を心から喜ぶ随喜の心を持てないとしても、少なくとも嫉妬して人を害してはならない。とりわけ仏教徒にとって、出家者であれ在家者であれ、仏祖は常に、随喜の心を必ず学び取るよう勧めておられる。他人の善い行いを喜ぶことができれば、私たちは苦しむことがないばかりか、さらに多くの功徳を積むことができる。功徳とは、私たちの心が喜びに満ちるところにある。その喜びの心こそ、安らぎと幸福の心である。

この法句において仏陀は、一乗の道に背く者について説かれている。ここでいう一乗の道とは、真実の法性を意味する。それに背くとは、それに逆らって生きることである。真理に反して生きることは、世俗の欲望と苦しみを追い求める生活である。続いて仏陀は、虚偽の言葉を語ってはならず、来世の果報を信じなければならないと勧めておられる。もしそうでなければ、仏陀は、人があえて行わない悪は一つもない、と説かれるのである。

因果、罪と福、未来の報いを信じるからこそ、人は修行し、善を行い、悪を避け、福徳を培おうとする。反対に、人が罪悪や報いを恐れなくなれば、それは人間社会にとって非常に大きな害となる。そのような者は、断見を説く外道の考えに従っているのである。この考えは、死ねばすべてが終わり、来世の因果も、罪福の報いも存在しないと主張する。そうなれば、人は思うままに悪をなし、徒党を組み、強奪し、殺人を犯し、暴行や薬物など、どのような犯罪でもあえて行うようになる。これは現代社会における、悲惨で痛ましい光景であり、最も深刻な社会悪の一つである。では、そのような社会と人間の生活はどうなってしまうのだろうか。きっと一人ひとりが、それにふさわしい答えを持っているに違いない。

🌿

禅AIアシスタント

オンライン

ようこそ。私はあなたの禅AI伴走者です。第 176 偈についての深い考察をお手伝いします。質問はありますか?それともその意味をさらに探求したいですか?