百年のあいだ、月々千回ずつ祭祀(マツリ)を営む人がいて、またその人が自己を修養した人を一瞬間でも供養するならば、その供養することのほうが、百年祭祀を営むよりもすぐれている。
百年の間、月ごとに千の供物を捧げようとも、完成された心を持つ者を一瞬でも敬うならば、その一瞬の敬意は百年の供儀に勝る。

詳細解説

この詩は、天界に生まれることを願ってジャイナ教の苦行者に多額の布施をしていたサーリプッタの叔父に関連して、竹林精舎でブッダによって説かれました。衆生には過去のカルマによって形成された様々な精神的傾向(種姓)があります。外部の神々に救済を依存する外道に陥る者もいれば、盲信から土着の精霊や事物を拝む者もいます。叔父の天界への願いは善行ですが、有漏(煩悩を伴う)の限界があります。ブッダは彼を究極の解脱へと導こうとしました。真の修行者への供養は、盲目的な儀式を何百年続けるよりもはるかに優れています。真の供養とは、自身の清浄な法身(ダルマカーヤ)を育むことです。「四十二章経」にあるように、供養の功徳は受け手の精神的悟りが深まるにつれて増大し、最終的には「無念・無住・無修・無証」という、すべての仏陀の根本である無為の真理への供養が最高のものとされます。

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