自己にうち克つことは、他の人々に勝つことよりもすぐれている。つねに行ないをつつしみ、自己をととのえている人、──このような人の克ち得た勝利を敗北に転ずることは、神も、ガンダルヴァ(天の伎楽神)も、悪魔も、梵天もなすことができない。
他者に勝つことよりも、自己に克つことのほうがはるかに優れている。自己を制し、常に振る舞いを慎む人の勝利は、神々や天使、悪魔や梵天であっても敗北に変えることはできない。

詳細解説

天神であれ魔王であれ、彼らはみな非常に大きな力を持っている。修行によって積んだ福徳の果報により、人間を超えた楽しみを享受することができる。しかし、自らと戦い、自分を屈服させ、さらに高い悟りの果へと進んでいく力という点から論じるなら、彼らは自分自身に勝つことができない。たとえそのように尊く華やかな福徳の楽しみを受けていたとしても、どうしていつか堕落し、苦しみから逃れられない日が来ないと言えようか。彼らは、ただ享受することを知っているだけで、自らを制し、修行に努めることを知らない類の存在である。しかし、その福徳の果報も、いつかは尽きる。どれほど莫大な財産を持つ人であっても、ただひたすら気ままに浪費するばかりなら、どうしてそれが消耗し尽くされないことがあろうか。したがって、ここで仏陀がこれらの天神の姿を示された目的は、自分の欲望を制御できる人と比べるなら、たとえそのような天神たちであっても到底及ばないということを明らかにするためである。なぜなら、欲望を制御できる人は、当然ながら解脱の道へ向かって進んでいるからである。彼らがすべての苦しみと束縛から解き放たれたなら、そのとき彼らは、自分と同じように人々やあらゆる生きものを苦しみから救い導くことができる。そうであれば、彼らは向上の道程において真の成功を成し遂げるのである。この法句も、前の法句と同じく、仏陀は自己に勝つ精神を強く説いておられる。なぜそうなのか。それは、自分自身に勝つことがこの世で最も困難なことだからである。言葉で言えばとても容易に聞こえる。しかし現実に直面したとき、そのとき初めて欲望の姿が立ち現れるのが見える。欲望は荒れ狂う暴風雨のように立ち上がる。それは相手が誰であろうと、どのような地位や境地にいようと構わない。ただ、自尊心を満たし、自己中心的な我を養い大きくすることさえできればよいのである。

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