詳細解説
釈尊がこの偈を説かれたのは、マンゴー園にいた在家信者ジーヴァカの問いに答えるためであった。伝承によれば、デーヴァダッタはアジャータサットゥ王と結託して釈尊を害しようとした。ある日、デーヴァダッタは霊鷲山の頂に登り、上から大きな岩を転がし落とした。岩は砕け、その破片が釈尊の足に当たり、足から血が流れた。弟子たちは釈尊をマンゴー園へお連れし、休息していただいた。ジーヴァカは名医であったが、その知らせを聞くとすぐにやって来て、釈尊の傷に薬を塗り、包帯を巻いた。ところがその後、彼には出かけなければならない用事ができた。彼は、戻って来て釈尊の包帯を外すと約束した。しかし彼が戻って来たとき、町の門はすでに固く閉ざされており、中へ入ることができなかった。彼は、釈尊の傷がひどく痛んでいるのではないかと心配した。釈尊は彼の思いを知り、阿難に包帯を外すよう命じられた。翌日、ジーヴァカは釈尊を訪ねた。そして、「世尊、痛みはございませんでしたか」と尋ねた。釈尊は答えられた。「ジーヴァカよ、如来は正覚を成じたその時に、すでに一切の煩悩を滅し尽くしたのである。」(『法句経物語』第二巻・ヴィエンチエウ版に基づく)。この短い物語を通して、釈尊は私たちに、修行者がすでに煩悩を断ち尽くしたなら、世間の人のように痛みにうめいたり苦しみを訴えたりすることはないのだと示しておられる。身体が傷つけば、普通の人にとっては当然、痛みが生じる。しかし、痛みとは、実は身体そのものの痛みというより、はっきり言えば心の痛みなのである。身体と心、言い換えれば肉体と精神との間には、きわめて深い結びつきがある。私たちは通常、身体と心を二つに切り離して見ることがまだできない。そのため、身体の筋骨が傷んだり負傷したりすると、耐えがたい痛みと不快を感じるのである。これに対して、悟りを得て煩悩をすっかり清め尽くした聖者たちは、自らの身体を自在に制することができる。その方々の心は、私たちのように身体に支配されてはいない。清浄なる実体、すなわち本来の心と完全に一つとなって生きているため、凡俗の生理的な反応を超えているのである。さらに明確に言えば、その方々には非常に強い禅定の力があるため、いかなるものもその心を動揺させることができない。身体を完全に制御しているからこそ、その方々は自らの意思に従って身体を扱うことができる。それは、運転者が車を操るのと同じである。運転者が車をどこへ走らせたいと思えば、車はその方向へ走らなければならない。だからこそ、その方々が生きようと思えば生き、死のうと思えば死ぬということを、私たちは不思議に思う必要はない。なぜなら、その方々は自らの呼吸すら自在に支配しているからである。それゆえ、生死に対してまったく自由自在なのである。その典型的な例として、禅師・鄧隠峰のことが挙げられる。入寂の前、禅師は僧たちに尋ねた。「私はこれまで、先徳たちが入寂するとき、ある者は坐し、ある者は横たわったと聞いている。立ったまま入寂した者はいるだろうか。」僧たちは答えた。「おります。」禅師はさらに尋ねた。「では、逆さまになって入寂した者はいるだろうか。」僧たちは答えた。「まだ聞いたことがありません。」そこで禅師は逆立ちのまま入寂した。しかも衣は、立っているときと同じように乱れなかった。僧たちは遺体を棺に納めて荼毘に付そうとしたが、押してもまったく動かなかった。その噂は遠近に広まり、人々が数えきれないほど集まって見に来た。禅師には出家して尼となった妹がいたが、彼女もその場にやって来た。彼女は禅師の身体をつかみ、こう叱った。「兄上は生前から戒律を守らず、死んでからも人々を惑わすのですか。」そう言い終えると、彼女が軽く押しただけで、禅師の身体は倒れた。僧たちは荼毘に付し、舎利を得た。(『中国禅徳行状』第一巻、206頁、ティク・タイン・トゥー長老編纂)。生死に自在であることを、まるで戯れのように示すこうした例は、禅の世界には数多く伝えられている。ここでは、その代表として一人の禅師を挙げるにとどめる。反対に、私たちの修行はあまりにも浅く、禅定の力も少しもない。そのため、どんな出来事が身に起こっても、すぐに冷静さを失い、心が乱れてしまう。これは、私たちの修行が聖者たちに比べてあまりにも未熟であり、極端に言えば、まだ何ほどの力も得ていないことを示している。だからこそ、私たちは絶え間なく苦しみを受け続けるのである。煩悩が尽きているから、その方々にはもはやいかなる束縛もない。それこそが、真に自在で解脱した人間の姿である。だから釈尊は、「道を行く者がすでに目的地に到達したなら、もはや恐れも苦しみもない」と説かれたのである。逆に言えば、まだ恐れや苦しみを抱く者は、真に目的地へ到達していない者である。その具体例がジーヴァカである。彼は優れた医師であり、良心ある人であった。しかし彼には、私たちと同じようにまだ煩悩があったため、釈尊が痛みに苦しんでいるのではないかと心配したのである。それは普通の人間にとって、ごく自然な心理である。業と煩悩の輪の中に生きているかぎり、私たちのあらゆる思案や心配は、煩悩に命じられて起こる。私たちはその奴隷なのである。煩悩は決して私たちを安らかにさせようとはしない。煩悩は敵であるから、常に私たちをかき乱す。私たちはその命令に従い、少しも背くことなく、一生を通して煩悩の忠実で有能な手下となってしまう。それでは、いったいいつになれば私たちは苦しみを脱し、身体を自在に制することができるのだろうか。そして、いったいいつになれば聖者たちのように、生死に自在でいられるのだろうか。ああ、私たち修行者の身の上を思うと、なんと痛ましく、なんと胸の痛むことであろう。
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