前世の生涯を知り、また天上と地獄とを見、生存を滅ぼしつくすに至って、直観智を完成した聖者、完成すべきことをすべて完成した人、──かれをわれは<バラモン>と呼ぶ。
過去世を知り、天界と苦しみの境涯を見、再生を終え、智慧を完成し、霊的な卓越の頂に達した聖者、そのような人を私は真のバラモンと呼ぶ。

詳細解説

この偈は、祇園精舎で、デーヴァヒタというバラモンの問いに関連して仏陀が説かれたものである。ある日、世尊は体調を崩され、ウパヴァーナ尊者に、デーヴァヒタの家へ行って湯を求めるよう命じられた。尊者はその家に行き、仏陀の具合を説明して湯を願い出た。バラモンはこれを聞いて大いに喜び、無上の覚者に湯を供養できるとは幸いであると思った。彼は湯と糖蜜を尊者に渡し、召使いに湯を運ばせた。ウパヴァーナ尊者は仏陀に湯浴みをしていただき、温かい蜜水を調えて差し上げた。するとすぐに痛みは和らいだ。バラモンは思った。「誰に布施すれば大きな功徳が得られるのだろう。世尊に尋ねよう。」彼は仏陀のもとへ行き、誰が供養に値し、どのような布施が無量の功徳をもたらすのかと尋ねた。仏陀は、そのような真のバラモンに供養するなら大いなる果報があると説かれた。仏陀は三明を成就された。すなわち、天眼明、宿命明、漏尽明である。三明により、仏陀はあらゆる現象を明らかに知る。天眼明とは、世界のあり方とその成り立ちの因縁を見通すこと。宿命明とは、自らと多くの衆生が過去の生においてどのように生死を経てきたかを知ること。漏尽明とは、苦の根源と、その原因を断って生死輪廻から解脱する道を知ることである。これは禅観の修行によって無明と煩悩を断ち尽くし、心が寂静で清浄になってこそ成就する。聖者たちは凡夫のように生死に縛られてはいない。しかし衆生を救う誓願の力により、三界に身を現し、迷いを開いて悟りへ導き、有情を苦から解放しようとされる。それが彼らが世に現れる本懐である。したがって、聖者の再生と凡夫の再生は異なる。凡夫は業力によって生まれ、過去の行いの果を受けるが、菩薩は衆生を救う誓願によって現れる。病や老いや死のように見えるものも、凡夫に近づき導くための慈悲の示現である。このように理解すれば、なぜ聖者も私たちと同じように病み、死ぬのかという疑いは消える。道を得た修行者は、凡夫の目には業の果を受けているように見えるかもしれない。しかし覚りの智慧から見れば、返すべき固定した自己も、返されるべき固定した業もない。業の性は本来空であり、五蘊もまた空である。無明に覆われた私たちの目には、目連尊者が暴徒に打たれて亡くなったことや、慧可大師が投獄されたことなどが、苦の果報のように見える。しかしこれを誤解すれば、菩提心を退かせ、「あれほど修行しても結局苦を受けるのか」と考えてしまう。決してそのように誤ってはならない。菩薩の示現は、肉眼では見通せない。凡夫は深い夢の中にいる者のようであり、覚者はすでに目覚めた者のようである。完全に目覚めた人が夢の中の人に語っても、夢見る者がどうして十分に理解できるだろうか。私たちも目覚めれば、語られなくても明らかに分かる。仏と衆生の違いは、迷いと悟りだけである。迷いと悟りは手のひらを返すほど近い。再生と苦を終えるため、仏陀は善き業を完成するよう教えられた。そこに至れば、人は無上の智慧を成就し、菩提の果を完成する。それが成仏、すなわち完全な覚りである。成仏の可能性は、すでに私たち一人ひとりの内に潜んでいる。仏は成就した仏であり、衆生は未来に成るべき仏であるという教えは、このことを明らかにしている。すべての衆生には仏となる因がある。努力して修行すれば、いつの日か必ず仏果を得る。これは仏陀ご自身が歩み、円満に成就された道なのである。

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