愚人とともに歩む人は長い道のりにわたって憂いがある。愚人と共に住むのは、つねにつらいことである。──仇敵とともに住むように。
愚者と行動を共にすれば、長きにわたり悲しむことになる。愚者との交わりは常に苦痛であり、敵と手を組むようなものだ。しかし、賢者との交わりは幸せであり、まるで親族と再会したかのように喜ばしい。

詳細解説

前の偈について、ここではひとまず三つの点に分けて考えてみたい。第一に、なぜ愚かな人と共に歩むと、いつも憂いと悲しみが絶えないのか。愚かな人とは、物事を明らかに見分ける賢明な判断力に欠けている人である。彼らは十分に考え、よく吟味してから行動するのではなく、自分の本能や好みに従って行動する。人と接し、語り合うときにも、言葉を慎むことを知らない。思いつくままに乱暴に発言し、相手が怒ろうが悲しもうが気にしない。話し方は粗雑でまとまりがなく、しばしばこちらの人をからかったり、あちらの人を困らせたりして、さまざまな面倒や混乱を引き起こす。彼らには礼儀も自尊心もほとんどない。身のふるまいや態度を慎むことも知らない。試しに考えてみてほしい。そのような人と一緒に歩いていて、あなたは苛立たずにいられるだろうか。もしあなたが教養を備え、自尊心があり、礼儀正しく、言葉づかいが丁寧で謙虚であり、人との交わりもきちんとしていて、仕事にも慎重であるなら、そのような愚かな人たちと共に出かけたいと思うだろうか。おそらく、そのような人々と親しく交わりたいとは決して思わないだろう。なぜなら、彼らに近づけば近づくほど、利益を得るどころか、ますます心を乱されるからである。そればかりか、注意しなければ、周囲の人からあなたまで彼らと同類だと見なされ、笑われ、批判されることにもなりかねない。そうなれば、あなたは耐えられるだろうか。したがって、多くの対処法の中で最もよい方策は、後に災いと憂いを招かないように、彼らから遠ざかることである。第二に、なぜ愚かな者と共に住むことは、敵と共に住むようなものなのか。敵とは、自分と同じ志を持たない相手である。自分と相手との間には、はっきりとした隔たりがある。人々はしばしば、敵とは同じ空の下に共存できない、と言う。つまり、彼らがいる場所に自分はおらず、自分がいる場所に彼らはいない、というほど相容れない存在である。ここで仏陀は、愚かな人と智慧ある人とを比べておられる。智慧ある人が愚かな人と共に暮らすのは、敵と共に暮らすようなものである。敵と言うからには、当然、双方には多くの違いがある。立場が違い、理想が違い、生き方が違い、好みも違う。そうであるなら、あなたが智慧ある人であったとして、どうして彼らとの間に深い理解を築くことができるだろうか。愚かな人と共に住むことも同じである。愚かである以上、あなたがどれほど高くすばらしいことを語ったとしても、彼らがそれに耳を傾けるとは限らない。それどころか、彼らの無礼な態度によって、あなたがひどく不快にさせられることもある。さらに、彼らは誤った見方や偏った思い込みに固執し、保守的で頑迷であり続ける人々である。彼らはあなたに賛同しない。あなたが善いこと、正しいこと、自分にも他者にも利益をもたらすことを行おうとすれば、彼らはそれを妨げ、邪魔をする。あなたがより高く美しい方向へ進むために築こうとしている計画を、彼らは意図的に壊そうとする。そのような愚かな人と、智慧ある人がどうして共に暮らすことができようか。だからこそ仏陀は、愚かな人と智慧ある人とは敵のようなものであり、共に住むことはできない、と説かれたのである。ここまで述べたのは、外にいる愚かな者と智慧ある者についてである。しかし、私たち一人ひとりの心の内にある愚かさと智慧について論じるなら、誰の心にもこの二つの種子は備わっている。愚かさとは無明であり、煩悩に染まった業の識である。智慧とは明らかに照らす叡智であり、清らかな目覚めの本性である。この二つを、方便的な教えの一面から見れば、たしかに同じ家に共に住むことはできない。なぜなら、それらは闇と光のように互いに対立する二つの領域だからである。闇は敵にたとえられ、光は智慧ある人にたとえられる。光があれば闇はなく、闇があれば光はない。したがって、もし私たちが無明と共に生きるなら、それは敵を受け入れ、その敵と共に暮らすのと何ら変わらない。当然、それは私たちの人生を打ち壊し、数えきれないほどの苦しみをもたらすことになる。もし私たちがそれを自分の家から追い出そうとしないなら、必ずや長く続く災いと苦しみ、さまざまな束縛を自ら招くことになる。第三に、なぜ智慧ある人と共に住むことは、親しい人と再会するようなものなのか。ここで仏陀が言う智慧ある人とは、明らかな理解を備え、高い徳をそなえた人のことである。彼らは正邪をはっきりと見分けることができる。感情の奴隷として生きるのではなく、理性によって生きる人である。彼らは、意識の太陽に照らされないまま行動することは決してない。広く寛容で、喜んで手放し、包み込む心を持っている。教条や固定観念に執着して頑なになることもない。彼らと接する機会があると、私たちの心は本当に安らぎ、みずみずしく明るくなる。なぜなら、彼らはいつも唇にさわやかで喜びに満ちた微笑みを浮かべているからである。彼らは、精神の大地に徳の根を深く張った人である。多くを語るよりも、実際に行うことを好む人である。何か善いことを学べば、それをすぐに日々の生活の中で実践する。大げさに語ったり、得意げに誇ったりすることを好まず、また単なる理論家であろうともしない。彼らは非常に現実的であり、利他と慈愛に富んでいる。そのため、誰からも敬われ、愛される。もし私たちがそのような人と共に暮らすことができるなら、これ以上の幸せがあるだろうか。私たちと彼らの間には、分け隔てる境界がない。私たちは彼らを深く敬い、愛し、彼らもまた私たちを深く敬い、愛してくれる。彼らのそばにいると、心が温かくなり、彼らから多くの善いこと、美しいことを学ぶことができる。そのため、その交わりは親しい人との関係のようである。そこには何も憂えたり恐れたりするものがない。だからこそ仏陀は、『智慧ある人と共に住むことは、親しい人と再会するようなものである』と説かれたのである。長く離れていた親しい人と、ある日ふたたび出会うことができたなら、それにまさる喜びはない。智慧ある人と共に暮らす幸運に恵まれたとき、私たちの心もまたまさにそのようになるのである。

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