さあ、この世の中を見よ。王者の車のように美麗である。愚者はそこに耽溺(タンデキ)するが、心ある人はそれに執著しない。
さあ、この世界を見てごらん。まるで美しく飾られた王家の馬車のようだ。愚か者はここに溺れ、賢者は何ら執着することがない。

詳細解説

この法句は、竹林精舎(ヴェールヴァナ)で、無畏王子に関連して仏陀が説かれたものである。辺境の反乱を鎮めたのち、無畏王子は勝利して帰還した。父王ビンビサーラはたいへん喜び、王子に褒賞を与えた。宮廷では七日間、舞姫たちが歌い舞い、音楽を奏した。王子はその機会に、父王の宮殿がいかに華麗で壮麗に飾られているかを目の当たりにした。八日目、王子は川辺で沐浴した。そのとき、ひとりの舞姫がきわめて美しい容姿をしているのを見た。王子は、その舞姫が舞う姿に見とれ、心を奪われ、深く執着した。ところが不幸にも、彼女は突然病に倒れ、そのまま亡くなってしまった。王子はあまりの悲しみに耐えきれず、仏陀のもとへ行き、自分の悲嘆を申し上げた。仏陀は王子を慰め、こう諭された。「あの舞姫は、これまで幾度となく死を迎えてきた。そして王子よ、あなたもまた幾度となく彼女のために涙を流してきた。生死を繰り返す輪廻とは、まさにそのようなものなのだ。」さらに仏陀は続けて言われた。「王子よ、悲しみに沈んではならない。愚かな者だけが、憂いと嘆きの海の中に自らを埋めてしまうのだ。」このことを機縁として、仏陀はこの法句を説かれたのである。この法句において、仏陀は一つのたとえを示して比較された。たとえこの世界のすべてが、王の車のように美しく、きらびやかに飾られていたとしても、それに執着するのは愚かな者だけであり、智慧ある者はそれに心を煩わされることがない、というのである。いま私たちは欲の世界に生きている。そのため、物質的なものに対して、私たちが欲しがらないものはほとんどない。仏陀のこの教えに照らしてみれば、人類の大半は愚かな者でありたがっていると言える。人の欲望には、どこまで行っても満足ということがないからである。一つを得れば十を望み、十を得れば百を望む。こうして欲望は果てしなく増え続けていく。深い海であっても、人はその底を測ることができる。しかし人間の貪りの袋には底がない。底がないものを、どうして測ることができようか。貪りが醜いものであり、苦しみであり、身を苦しめ、心を疲れさせるものであることは、誰もが知っている。それでも人は、なかなか立ち止まることを知らない。生きている間に貪るだけではなく、死に臨むときでさえ、その貪りを手放すことができない。だからこそ仏陀は、衆生は生死輪廻の中を果てしなく流転し、多くの苦しみを受け続けるのだと説かれたのである。愚かな者と異なり、智慧ある者とは目覚めた人であり、明らかに物事を見る人である。智慧があるために、その人は万物がただ幻のようなものであると見抜く。なぜなら、すべてのものは無常の法則を免れることができないからである。どれほど裕福で、多くの財産を持ち、華やかで美しいものであったとしても、結局は夢のような幻にすぎない。万物に堅固なものはない。この世は仮のものであり、しばしの間だけ成り立っているにすぎない。長く存続するものは何一つない。まさに古人が嘆いたように、この世の舞台は幻としてすでに幕を開け、はかない人生を見れば痛ましさを覚える。百年の歳月があったとしても、最後に残るものは何であろうか。ただ青々とした草に覆われた一握りの土にすぎない。このように知るならば、いったい何のために執着するというのか。人々が苦しみ、互いに傷つけ合い、殺し合うのも、すべて貪りの心による。貪りが満たされなければ、怒りが起こる。怒りの火が燃え上がると、もはや善悪や正邪を見分けることができなくなる。すると無明が割って入り、どうしても勝ち負けをつけようとする。大きくは、ある国が他の国を侵略する。小さくは、個人と個人との間に争いが起こる。こうして争いはやむことがない。そのすべては、貪り・怒り・無明という三つの毒から生じるのである。これに対して、智慧ある者はそれらの根本をただちに見抜く。それらは、水の泡のように、集まっては消え、常に変化する虚しいものにすぎない。悟りの歌の中で、永嘉玄覚禅師はこう述べている。「五蘊は浮雲のごとく、来ることも去ることも空であり、三毒は水泡のごとく、虚しく現れては没する。」私たちは五蘊から成るこの身を実在するものと思い込んでいる。しかし道を悟った人の眼から見れば、それは広大な宇宙の中に浮かび、集まっては散っていく雲にすぎない。貪り・怒り・無明もまた、浮かんでは消える泡のようなものであり、幻のように虚しく、真実として毒をもつ実体ではない。このように明らかに見るからこそ、人は貪りの心を断ち切ることができる。だから仏陀は、そのような人を智慧ある者、すなわち智慧の眼によって世間を見る人であるとされたのである。そのおかげで、その人はこの世のただ中に生きながらも、心はまことに軽やかで、自在であり、解脱しているのである。

🌿

禅AIアシスタント

オンライン

ようこそ。私はあなたの禅AI伴走者です。第 171 偈についての深い考察をお手伝いします。質問はありますか?それともその意味をさらに探求したいですか?