みずから悪をなすならば、みずから汚れ、みずから悪をなさないならば、みずから浄まる。浄いのも浄くないのも、各自のことがらである。人は他人を浄めることができない。
悪をなすのも自分であり、自らを汚すのも自分である。悪を避けるのも自分であり、自らを清めるのも自分である。清らかであるか汚れているかは自分次第であり、誰かが他人を清めることはできない。

詳細解説

仏陀はジェータ林(祇園精舎)で、在家信者チュッラ・カーラに関連してこの教えを説かれました。ある時、泥棒が彼の足元に盗品を投げ捨てました。追手は彼を泥棒と勘違いし、殴りかかろうとしました。幸いにも、通りかかった遊女たちが彼が無実であることを証言し、彼は救われました。これを聞いた仏陀は、彼が救われたのは証人の力だけでなく、根本的には彼自身の無実のゆえであると説明されました。衆生は自らの悪業によって苦しみの世界に落ちますが、善行によって自らを救い、天界や涅槃に至るのです。

すべての苦しみと喜びは心が作り出すものです。誤った行動は妄想の心から生じ、善い行動は清らかな心から生じます。仏陀は自己責任を強調されました。誰も他人を清めることも、縛ることもできません。悪意を抑えなければ、悪い結果を招きます。真の修行とは、常に自分を見つめ直し、悪念を捨てることです。「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教(悪をなさず、善を行い、自らの心を清める、これが諸仏の教えである)」という迦葉仏の教えの通り、地獄も涅槃も結局は私たち自身の心の中にあるのです。

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